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プロ野球デキゴトロジー/12月15日

魔術師、逝く。仰木彬氏死去【2005年12月15日】

 

05年、合併球団オリックス・バファローズの初代監督としてチームを4位に導いた


 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月15日だ。

 2005年12月15日、呼吸不全で前オリックス監督の仰木彬シニア・アドバイザーが死去した。近鉄、オリックスを指揮した名将。2005年は70歳にして合併球団オリックス・バファローズを指揮したが、勇退後に体調が悪化し、ユニフォームを脱いでからわずか2カ月でその生涯を閉じた。今回は本誌2006年1月2日号から仰木氏と親交が深かった当時の小社顧問・田村大五氏(故人)のコラムをそのまま紹介したい。

 やや長いものになるが、ご勘弁を。

気は強いが、人には優しかった名将


「仰木彬」というと、私は“バカの一つ覚え”のようによくしゃべったり書いたりする若き日のエピソードをあらためて書き残しておきたいと思う。

 1954年に投手として入団、すぐ二塁手転向を命じられたころの、当時の三原脩監督との“壮絶な戦い”だ。高校を出たての新しい二塁手に三原監督は“これでもか”という執拗なノックを浴びせ続けた。

 捕れるか、捕れないかという“いやらしいノック”。エラーしたり、はじいたりした仰木・新二塁手は、ヘトヘトになりながら“いじわる執拗ノック”の球をやっとつかむと、なんと、三原監督の顔面めがけて全力で返球するようになる。明らかに自分の顔に向かってくる返球と分かっていて、だが、三原監督はそ知らぬふうにバットを顔の前に立ててコツンとその返球を受けた。“高校生”とプロ一流監督との息詰まる攻防。そこから“チャンピオン・西鉄ライオンズの仰木二塁手”が生まれた。

 自分の顔面に向かって返球する二塁手を三原監督は愛し、その新鋭二塁手はのちに近鉄・三原監督に招かれ、コーチ→監督になって「三原監督のDNAを受け継いだ用兵」と言われた。監督になってからもことあるたびに、いや、この05年も上京すると東京・世田谷の三原監督の墓前にぬかずいていた。

「えらいもんだねえ」と会うたびに言うと、「だって、今のオオギを育ててくれたのはあの人だもの。お墓の前で手を合わせていると、気持ちが締まるんだ」とハニカミ笑いつつ、答えたものだ。

 気は強いが、人には優しかった。背は高いほうではなかったが、いつも背筋をシャンと伸ばし歩く姿がカッコよかった。新婚時代、当時の福岡では初めての高層マンションに住み、近くの大濠公園を散歩している姿が絵になった。それでいて気取らなかった。ざっくばらんで、何でもあけすけにしゃべった。

仰木高等作戦その1


 現役時代、スプリング・キャンプ前、自主トレーニングに中西太たちと別府の一軒家を借り、汗を流した。朝夕の食事は手作りで、あふれる湯の中でワイワイ騒いだ。前夜の酒で朝いつまでも私が寝ていると「早く起きんかい」と枕を蹴飛ばされた。「アキラちゃん」たちはもう朝のランニングを終えて汗びっしょりだった。文字通りの自主トレだった。

 長いコーチ歴が「何よりの財産」になった。監督とどう接すればいいのか、体で覚えていった。二軍監督時代、“単身赴任”のマンションでご馳走になったことがあった。そのときも“手作り料理”だった。

 監督になってからも“こんなに報道陣を大事にする監督がほかにいるだろうか”と思った。キャンプでは「飲み会」を設け、それぞれ勝手なことを言う声に笑って耳を傾け、時に記者たちの身の上話も聞いてやったりするから、各記者はそれぞれ、“自分が一番監督と親しい”と思っていたフシがある。「仰木高等作戦その1」だろう。

 現役─コーチ─監督の中で、ただ1年、ユニフォームを脱いだ93年、高知のホテルで、ちょうどコラム「白球の視点」の読者と「車でキャンプ巡りをしよう」と落ち合ったところで“評論家・仰木”とバッタリ。そこで“仰木一行ツアー”となった。翌年、そのときに車を運転した青年が結婚することになり「祝電でも……」と頼んだ。「サチオオカレトイノル」式の定型電報でも……と思っていたら、野球になぞらえての長文の“仰木電報”で、青年一家は「家宝もの」と喜んだ。そのあたりの気の使い方も仰木式だった。

 そういう報道陣やファンとの接し方を見て、それがグラウンドでの選手掌握、ベンチ采配にも通じるのではないかと思った。そういう人との接し方を、積極的に楽しんでいるふうもあった。野茂英雄のトルネード投法もイチローの振り子打法も、コーチに「触るな」と命じ、彼らの個性を自由に伸ばし見事に開花させたのも、自ら“積極的に楽しんだ”気配が見えるし、120通りとも125通りとも言われた“先発メンバー変え”も考えることを楽しんでいるようだった。

「ユニフォームを着てベンチで野球に接していることほど面白いことはないのに、何でみんな評論家になりたがるのかなあ」と言っていたことがあった。弱小戦力を与えられても、どれでどうやって戦うか考えることが楽しいんだ、とも。

「仰木彬に苦しいこと、悩みはないようだねえ」と言ったら、真顔で言われたことがある。「どうしてワシの下でプレーした選手ばっかりアメリカに行くんだろう。それが日本球界に申し訳なくってねえ」。そのくせ久しぶりにユニフォームを脱いだ02年、「イチローに会いに行く」と言ったときのうれしそうな顔といったらなかった。

 05年の2月、宮古島キャンプでもまだホテル─球場の約10キロを歩いていると聞いたが「いや、もう半分で車に乗っている」と笑っていた。夜、久々に泡盛を酌み交わしたが、私のコップの中の液体より薄く、ピッチもかつてに比べれば遅くなっていたのが気になっていた。

「何とかプレーオフにもっていきたいなあ」

 帰京する日、球団職員を通じてソッと「極上・限定品」の泡盛を手渡された。

「そのうちまた盛大に飲めるような体に戻しておくから」

 それが20歳代から70歳まで続いた交友の最後の別れの伝言となった。

写真=BBM

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