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パンチ佐藤の漢の背中!

【パンチ佐藤が直撃!】ゴルフのレッスンプロとして活躍する津野浩(元日本ハムほか)

 

『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「パンチ佐藤の漢の背中」。現役を引退してから別の仕事で頑張っている元プロ野球選手の下をパンチさんが訪ね、お話をうかがってまいります! 今回は後楽園時代の日本ハムのエースで、現在はゴルフのレッスンプロとして活躍中の津野浩さんをお訪ねしました。

思い入れがあるのは最初に入団し、自分も輝いていた日本ハム時代


パンチさん(左)と津野浩プロ


 日本ハム入団2年目の1985年、“19歳の開幕投手”としてマウンドに上がった津野浩さん。予告先発の制度がなかった当時、前年8勝を挙げた田中富生(津野さんは4勝)が開幕投手と予想される中の、サプライズ登板だった。

 この年から3年連続開幕投手を務め、すべて勝利投手になった津野さん。通算13年のプロ野球人生において、最も印象に残る出来事だったという。

 さてこの津野さん、われらがパンチさんと実は4度、直接対決を果たしている。結果は中越え二塁打、中飛、左越え適時二塁打(1打点)、三飛とパンチさんにやや軍配。残念ながら、2人とも「まったく記憶にない」隠れた想い出の1ページとなっていたのだが。

パンチ 津野君といえば僕、日本ハム一筋のイメージがあったんだ。その後3球団も渡り歩いていたとは、正直記憶になかった。

津野 そうなんです。ただ私自身、一番思い入れがあるのは、やはりプロで最初に入団して、一番長くいた日本ハムですね。そこで育ててもらっし、私の中では一番輝いていた時代でしたから。

パンチ 高校(高知商高)から直接プロに入るのに、不安はなかった? うれしいほうが強かった?

津野 不安はありました。というのも、初めは社会人に行こうかなという気持ちが強かったんです。もちろんドラフトにかかるんじゃないかな、指名してもらいたいなとは思っていましたが、結果的にかかったのが日本ハム。それも当時の日本ハムは、今の時代の日本ハムとは違いまして、「ええっ、日本ハムか?」という感じでしたので……。

パンチ まずパ・リーグだしねえ。

津野 はい、正直そこが一番ネックだったんです。

パンチ それでも入団したのはなぜ?

津野 社会人に行って、次にまたドラフトされる可能性があるかどうかも分からない。高校のころから、プロ野球選手になることは当然夢でもありましたから、自分の力を試してみたい、それなら最初に指名してくださった日本ハムで、と思いました。

パンチ 入団したときは、まだ本拠地が後楽園球場だったのかな。

津野 はい、後楽園のダグアウトから見るグラウンドの風景は今も懐かしいですね。ダグアウトがグラウンドより少し、低い位置にあって……。

パンチ 電光掲示板の両側に『パイオニア』って看板が出ていてね。外野の向こうで遊園地のパラシュート(正式名称は『スカイフラワー』)がヒューって(笑)。

津野(笑)ずっとテレビでジャイアンツ戦を見てあこがれていた球場に、まさか自分が日本ハムの一員として立てるなんて、思ってもみなかったですね。

パンチ 後楽園のマウンドは、巨人のピッチャーのために少し高くなっているってウワサもあったけど、どうでした?

津野 それはあまり感じなかったですね。そのあとの東京ドームは、とても投げやすかったですよ。

「自分はまだやれる」と信じて中日にテスト入団


日本ハムでは高卒2年目で開幕投手に抜擢され、3年連続で大役を任せられた


パンチ プロでやっていけるかもしれない、と思ったのは、どの瞬間?

津野 1年目のキャンプは二軍スタートだったんです。そこでの練習が、高校の練習内容と結構似ていたので、「高校時代、結構いい練習していたんだな」とホッとしたのが最初です。ただ、キャンプの途中で一軍の試合を見に行くと、なんだか異様な雰囲気がありまして。一軍の人がケガで(二軍に)降りてくると、なんかみんな、オーラがあるんです。そういった一軍のイメージは、自分から見たら雲の上の存在というのがまず第一印象でしたね。

パンチ 二軍はほのぼのしたような、「みんな頑張ろうぜ」という感じがあるからね。

津野 そうなんですよ。それから二軍の教育リーグで投げさせてもらったら、なぜか分からないけど高校時代より少しレベルが上がっていまして。その後、何試合か先発させてもらったときも、結構すんなり抑えることができて、「あれ、こんなものなのかな?」と感じました。「やれるかも」と思ったのは、調整に来ていた巨人の吉村禎章さん、駒田徳広さんを抑えたとき。そんな感じで何試合か投げているうちに、1カ月ほどで一軍に上げてもらいました。高卒だとまずは3年、体を鍛えて……というのが当時のパターンだったので、驚きました。

パンチ 3年間でプロの体になって、それから……っていうのがあったよね。やっぱり高知で魚をたくさん食って、体もできていたのかなあ。

津野 チーム事情が一番大きかったんじゃないでしょうか。

パンチ だとしたら、逆にいい球団に入ったね。

津野 本当にそう思います。しかも一軍に上がったその日か翌日か、いきなり試合に出してもらいました。後楽園の阪急戦(84年5月9日)で、リードしている場面の5回一死満塁。私がもし監督だったら、こんな高卒1年目の、どんな球を投げるか分からないピッチャーなんて、そんなところで使おうと思わないですよ。自分でも緊張して、どんな球を投げたのかまったく覚えていませんが、そこでいいピッチングができました。

パンチ 18歳で入って、出だしでつまずいて、ダメになっちゃう人もいるじゃない。津野君の場合はトントン、いいスタートが切れたね。

津野 そんなところで使ってもらったというのが、まず一番。裏を返せば、そんな私を使わざるを得なかった日本ハムのチーム事情があったんじゃないかと思います。もし巨人にでも入っていたら、ずっと二軍暮らしだった可能性もありますよ。

パンチ そうして3年連続開幕投手も務めて、輝かしい日々を送り……日本ハムでの最後の年(1991年)は、まだ26歳でしょう。どうしてトレードに?

津野 あの年は、肩の故障があって、ほぼ二軍暮らしだったんです。実はずっと痛かったんですが、自分で言うとみんなに負けてしまうんじゃないかと思い、隠しながらやっていたツケが出てしまいました。それを承知で広島が獲ってくれたので、心機一転と思って広島に行ったんですが、結局その年は1回しか登板できず。1年で球団から自由契約を告げられたときは、まだ自分ではやれる、「来年こそは」と思っていただけに、人生最大のショックでしたね。

パンチ そこをどうやって奮い立たせて、中日に行ったの?

津野 「自分はまだやれる」という思いが一番ですね。俺には絶対まだ力がある。絶対一軍で活躍できる、と信じていました。

パンチ もう一度、あのマウンドに立つんだ、と。

津野 はい。それにはまずアクションを起こさなければならないので、ツテを頼って中日のテストを受けさせてもらうことになりました。中日も1年限りでしたが、中継ぎと先発の両方で登板機会をもらい、広島戦に先発して勝ち投手になったのはいい思い出です。

パンチ その後ロッテで、いよいよ引退を覚悟したのは?

津野 自分の投げているボール、周りの選手との力加減、自分の使われ具合を見て、シーズン中盤ごろから「今年で終わりかな」と思っていました。

パンチ そのとき、お子さんはいくつでしたか。

津野 ウチは女の子が2人なんですが、まだ小学生でした。

パンチ さてどうしよう、と。

津野 まだ未練はあったので阪神のテストを受けたんですが、不合格。もう完全に道はなくなったな、とそこできっぱりあきらめました。そのとき自分はゴルフに自信があったので、妻に「ツアープロに挑戦してみたい」と相談して、「じゃあ一度やってみたら」と言ってもらえまして。まあ、相当心配だったとは思うんですが。

研修生時代はキャディーと雑用の微々たる収入のみ


津野浩プロは横浜市戸塚区の「横浜スポーツマンクラブ」で週6回、プライベートレッスンを担当。ビデオによるスイング解析も行っている


 現役時代からゴルフにはまり、めきめき上達していったという津野さん。きっかけは1年目のオフ、先輩に連れられて初めて回ったコースだった。「止まっているボールなんか、思ったように打てるだろう」と考えていたのが、大間違い。なかなか思うようにいかないところが、逆に新鮮で面白かった。

 以後、暇さえあれば一人で練習に出かけ、みるみる上達していった。スコアは常に70台後半。ドライバーも300ヤード近く飛ばしていた。好きが高じて……32歳からの再挑戦はそんなところから始まった。

パンチ 奥さんは年上なの? どんなタイプの方? ドンッとした感じか、一緒に話し合っていくタイプか。

津野 同い年で、そういう節目節目には当然話し合いをしていますが、この先どうなるか分からないこと、もし私が妻の立場だったら賛成できなかったんじゃないかなと思いますよね。まだ家のローンが残っているのに、稼ぎがなくなるわけですから。

パンチ 下世話だけど、生活はどうしたの? グッと落としたの。

津野 落とすところまで落としました。そこから、知り合いの紹介で『横浜カントリーゴルフクラブ』に研修生として入れていただき、ツアープロを目指して練習し始めたんです。

パンチ それは給料が発生するの?

津野 研修生としては発生しないです。それで、お客さんのいない時間帯に練習をさせてもらっていたんですが、「もっとボールを打たなければダメだ、ここで練習しなさい」と、こちら(横浜スポーツマンクラブ)の施設を使って練習させていただけることになりました。

パンチ 給料は払えないけど、好きなだけ打て、と。

津野 はい。朝早く来てボール拾いなどの雑用をしたり、横浜カントリーでキャディーをやったりして、微々たる収入がある程度です。

パンチ 僕はね、それはできるよ。津野君も踏ん張ってやった。だけど、できない人も多いよね。なぜグッとこらえてできたの?

津野 生活の苦しさ一つとっても、私より家族のほうがもっと苦しかったと思うんです。そんな状況でやらせてもらっている以上、自分はやはり努力しなければいけない。こんなところでくじけちゃダメだというのはありました。

パンチ それが当たり前だよな。奥さんや子どもの顔が浮かんだらねえ。

津野 だから、そこでつらいとは思ったことはなかったです。

パンチ ツアープロを目指して何年くらいやったの。

津野 10年ほどです。プロテストもギリギリまで行ったこともあったんですよ。その間、推薦で3試合ほど、ツアーに出してもらいまして。そのときプロと一緒に回って、すべての技術においてプロはうまいな、とつくづく思いました。

パンチ 出られてよかったね。それを感じないと、(プロを)あきらめるにあきらめられないじゃない。結局プロになれる、なれないの違いはなんだと思った?

津野 やはり子どものころからゴルフをやっていないと難しいかなと思いましたね。例えば短い距離――5メートル先を目で見ただけで、野球でいえばボールを下から投げるように打てるんですね。それは非常に大事な勘。大人になってから始めても、なかなか養えるものではありません。

パンチ それで踏ん切りをつけて、教えるほうに回ったわけだ。

津野 トーナメントを目指しながら、途中でティーチングプロの資格は取っていましたので、すぐレッスンのほうに移ることができました。

やりがいは自分のアドバイスで生徒さんがメキメキ上達すること


パンチ レッスンプロのやりがい、楽しいところはどこですか。

津野 生徒さんから「ベストスコアが出ました」と聞いたときとか、最初打てなかったのが、自分のアドバイスでポーンと打てるようになって喜んでもらったときは、やりがいを感じますね。

パンチ じゃあ逆に難しさは?

津野 なかなかうまくなってもらえないときは、やはり自分の指導力のなさを感じます。プロ野球の世界でも、バッティングコーチの理論がまったく合わない選手、合う選手がいますよね。そこが結構難しいかな、と。

パンチ 津野君はどういうタイプの指導者なのかな。いろいろあるでしょう、俺の理論はこうだっていうタイプ、教わる人に合わせていくタイプ……。

津野 私は理論があっちゃダメなんじゃないかと思いますね。ゴルフをやっていて、時々野球に置き換えて考えることがあるんですが、やはり「こうじゃなくてはいけない」というのでなく、その人に合ったことを教えなければいけないと思うんです。一つの理論を追求することも大切ですが、それがすべてのピッチャーに合うかといったら、そうとは限らないですからね。

パンチ それは津野君の経験から?

津野 私は日本ハム時代の大石清コーチに、自分に当てはまる指導をしていただいて、よくなったので。

パンチ イチローの振り子打法も、マラソンのQちゃん(高橋尚子)の走り方もそうだよね。僕、番組でゴルフを教わったとき、「パンチ君、ボールを見ないで適当に打って」と言われてね。「パンチ君は真面目すぎるから、ボールを見ると硬くなっちゃうんだ」「野球選手は本能で打てるから、君はそうしなさい」って。そんなもんかな? と思いながら適当に振ったら、本当に飛んだのね。ああ、こういう指導もありなんだと思って。

津野 ですから私たちも、幅広い理論を勉強しておかないといけないんですね。

パンチ これは生意気かもしれないけど、僕からのアドバイス。いろんな年齢層、ジャンルの人と飯を食いに行ったり、飲みに行ったりしたほうが勉強になるからね。さて、これからは、どうなりたいと思っている?

津野 今の仕事をどれだけ長く続けていられるかですね。

パンチ 今52歳だっけ。この仕事は定年があるの?

津野 レッスンに対してはないです。

パンチ じゃあ元気で、今の評判を保っていればいいわけだ。

津野 そうですね。そこはキープしていかないといけません。

パンチ 今後引退する後輩たちには、どんなひと言を送りたいですか。例えば「僕もゴルフやってみたいんですよ」という後輩がいたら。

津野 まず環境が大事ですよね。経済的に不安がない、好きなだけ練習ができる。そんな環境がないとゴルフは不可能だと思います。あと全体で言うと、プロ野球選手である以上、必ず引退の日は来ますが、なかなか入団して2、3年は……いや4、5年経っても、「引退したらどうしよう」ってあまり考えないですよね。

パンチ 考えないよね。

津野 そこで少しは考えておく、あるいは選手に対し、球団か指導者がある程度、話をしてあげることも必要なんじゃないかと思います。

パンチ いい時期はいつまでも選手をやれると錯覚しがちだけど、違うもんね。そのへんはしっかり人間教育をしておかないとね。

津野 少しでもアドバイスしてもらえる環境があると、次の仕事に行っても比較的うまくいくのではないかと思います。

パンチ だって寒い日も暑い日もコツコツ、俺たちは練習してきたわけだから、その気持ちがあれば第二の人生だってやれるよね。

津野 なんか偉そうなことを言ってしまいましたが……(笑)。でも、そう思います。

パンチの取材後記


 今回会ったときの第一印象は、あのときのマウンドの彼のままでした。レッスンプロだから、体形を維持しているのは当たり前といえば当たり前。だけど、何かある……。

 話を聞いて、「これだ!」と思いましたね。スポーツには関係ないけれども、夫婦仲よく、家族仲よく。すでに成人した2人のお嬢さんとも一緒にスノーボードをしに行くなど、五十路を迎えた今も“カッコいいパパ”でいる。夫婦、家族仲よく生活するって、これが当たり前のようでなかなかできないことなんですよ。第二の人生、仕事で大成功を収めているというのもカッコいいかもしれないけれども、やっぱり夫婦、家族仲よくっていうのが一番だな、とあらためて思いましたね。津野君、とても幸せそうだった。それが一番なんだよ、津野君!

 実はわが家もそこが自慢。娘といつまでも並んで歩けるように、お互いオシャレと体形には気をつけていこうな!(笑)

●津野浩(つの・ひろし)
1965年8月6日生まれ。高知県出身。高知商高ではエースとして高3夏に甲子園出場、KKコンビ擁するPL学園高に敗れるも全国ベスト8。ドラフト3位で84年日本ハムに入団。85年から3年連続開幕投手を務め、86、89年には2ケタ勝利を達成するなどエースとして活躍。92年広島、93年中日、95年ロッテに移籍し、97年限りで引退。通算成績は231試合、53勝71敗、防御率4.61。現在は「横浜スポーツマンクラブ」を拠点にゴルフのレッスンプロとして活動中。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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