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追悼・星野仙一

追悼企画02/星野仙一、野球に恋した男

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 いま編集部では、1月26日発売予定で星野さんの追悼号を制作している。その中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

ライバル・田淵幸一


明大時代のピッチングフォーム。速球派だった


 明大時代、「他校で認めたのは、あいつだけ」と言い切るのが、法大の田淵幸一である。当時の東京六大学リーグ記録、通算22本塁打を放った強打の捕手。在学中3度のリーグ戦優勝を経験しているが、その原動力となったのが、“法政三羽烏”とも言われた田淵、山本浩司(のち浩二)、富田勝、そして投手では1学年下で通算48勝の左腕・山中正竹だった。

 ふたたび『東京六大学野球80年史』のインタビューを見る。星野は大学時代の田淵について次のように語っていた。

「肩もすごいし、小回りもきく。足も速かった。顔だけ見たらボケーッとして見えるんですけどね(笑)。ただ、田淵には1割そこそこしか打たれてないんじゃないですか。僕は“へなちょこ”には打たれるんですよ。スターに向かっていって、あとは手抜きしてしまうという悪いところがあったみたいで。ある意味、田淵しか意識してませんでしたしね」

 星野は4年時にはキャプテンにもなったが、春が4位、秋が3位。星野が在学中の明大には1学年上の高田繁も含め、好選手が多かったが、結局、一度も優勝には届かなかった。

「当時の法政、早稲田(1学年下には、のち中日で一緒になる谷沢健一もいた)は強かったですよ。たとえば年間50試合とか60試合という戦いなら負けてなかったという自信はありますけど……言い訳になりますね。高田さんにはいまだに言われますけどね。『お前は大学のときサボッてオレらに優勝させなくて、プロに行ったらあんなにいいボールを投げやがって』と(笑)」

 卒業後はプロに進むと決めていた。

「私はプロに入るという気持ちがものすごく強かったので、(明大野球部を)やめたいな、つらいな、逃げ出したいなと思うことは何度もありましたけれども、ここでやめたら俺の夢が壊れると、弱気を一生懸命、振り払ってました」

 そして1968年11月12日、運命のドラフト会議を迎える。目玉はやはり田淵。豊作ドラフトと言われたが、実際、このメンバーには、のちのタイトルホルダー、名球会、一軍監督がゴロゴロいる。いまでは豊作の上に“史上最高の”の冠がつくドラフト会議だ。

 当時はクジ順を決め、競合なし、いわば早い順で交渉権を決めていく。

 巨人は8番目だったが、田淵が巨人を熱望していたこともあって、「拒否を恐れ、そこまで残るのでは」とも思われたが、3番目の阪神が強行指名。巨人は武相高の投手・島野修を指名し、星野は10番目の中日が1位指名。巨人から「田淵がダメなら君を指名する」と言われていた星野が「島と星を間違えたんじゃないか」と憤ったという。

 この有名な言葉は、星野と田淵、東映1位の大橋穣、南海1位の富田勝が出席し、11月13日の報知新聞に掲載された座談会の記事から来ている。

 星野は過激だった。

「あんな小僧を! 田淵が指名されたのならあきらめるが」

「ドラフト制度などぶっこわせだ。巨人は島野と星野と字を間違えたんじゃないかな。おれは、巨人に当たった夢を二度見たんだぞ」

 さらには、選手は組合を作って、入りたい球団に入れるようにしなければ、とも語っている。

 週べでは12月16日号、連載『明日の英雄』で『六大学の心臓投手』の見出しで、星野を扱い、本文でも「それが知りたい 竜が尾をふる即戦力の旗頭」というインタビュー記事があった。

 あしたは、その記事を中心に紹介しよう。

<次回へ続く>

写真=BBM
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