今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3500号が近づいている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 オフらしくほのぼのとした企画も
今回は『1959年12月9日号』。定価は30円だ。今回もオフらしくほのぼの。センターグラビアには『花形選手の二世誕生』と題し、選手の夫人と赤ちゃんの2ショットがずらり。ドラフト前、選手争奪戦が激しい時代で1000万円という契約金の枠いっぱいで入団したと言われる60年入団選手も紹介されている。
後ろグラビアには大毎の新監督となった
西本幸雄の秋のオープン戦の姿。39歳の青年指揮官だ。本文には『大毎新監督登場までの舞台裏』という記事もあった。永田雅一オーナーは、辞任がウワサされていた
巨人の
水原茂監督(留任)か西鉄の
三原脩監督(大洋監督に)と思っていたが、いずれもうまく行かず、消去法での西本コーチ昇格だった。
“ラッパ”とも言われた永田オーナーは映画畑の人物らしく、大言壮語が多く、かねてから「交通至便の旧横浜市役所跡に新球場を建設する。そして大物選手をそろえて東京レッド・ソックスをつくる」と2球団目への野心も語っていた。
本文巻頭は二大特集。まず最初が『爆弾を投げつけた三原脩〜大洋入りまでの真相はこうだ』。前年オフに続き、新聞のスクープから始まった西鉄・三原監督の退団、大洋監督就任騒動についてだ。前回は元のさやに納まったが、今回は本当になった。ただ、この時点では西鉄への辞表の提出のみ。
第2特集『川上はなぜ監督にならなかったのか』。正力松太郎読売新聞社主は、水原監督をやめさせ、ヘッドコーチの
川上哲治を監督に昇格させるつもりだったらしい。それを翻意させたのは、鈴木龍二セ会長。どこまで本当か分からないが、当時のセ、パの関係が垣間見える。鈴木会長はこう言ったようだ。
「水原はいろいろ批判されても一流の監督である。水原が辞任すれば、彼をほしがっている永田大毎会長が直接あなたのところに申し入れてくるに違いない。申し込まれたあなたのほうは監督をやめた水原をくれぬということは言いづらいかもしれない。選手権の結果としてセとパの人気が微妙な段階に来ているとき、水原というセの財産をパに走らせるのは得策でない」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM