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背番号物語

【背番号物語】「#40」コーチの背番号から韋駄天の出世ナンバーへ

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

監督と総監督の間で



 1950年に2リーグが分立すると、「50」を着ける監督が増え始め、一方で1リーグ時代から続く「30」の監督との2大勢力に。中には監督が「30」で総監督が「50」、あるいはその逆、というチームも出てくるようになった。

 2つの数字の中間である「40」がコーチ、それも中心的なコーチの背番号となっていったのは、自然の成り行きだっただろう。

 表舞台ではないが、チームが強くなるためには不可欠なスタッフワークに励んでいたのが「40」だ。それだけに意外な人物とチームの組み合わせもあり、“ミスター・タイガース”藤村富美男も東映のコーチとして2年だけ「40」を着けていた。こうした潮流は長く続き、20年を経た70年代にも散見される。

【12球団主な歴代背番号「40」】
巨人 松田清宮本敏雄佐藤洋佐藤宏志谷岡竜平

阪神 並木輝男桑野議、ラインバック、桟原将司福永春吾

中日 空谷泰、法元英明大島康徳藤波行雄益田大介石川翔☆(2018〜)

オリックス 井野川利春(兼任助監督)、平林二郎福原峰夫金田政彦鈴木昂平

ソフトバンク 白崎泰夫柳田聖人脇坂浩二藤岡好明小澤怜史

日本ハム 保井浩一(二軍監督ほか)、金城博和山下和彦實松一成高良一輝

ロッテ 大沢啓二(コーチ)、佐藤和史干場崇永渡辺正人島孝明

DeNA 宮崎剛(兼任コーチほか)、岩本堯(コーチ)、大川隆(隆哉)、桑原義行飛雄馬

西武 今久留主淳(コーチ)、河野昭修(コーチ)、笘篠誠治高木浩之田村伊知郎

広島 東山親雄、高橋慶彦、達川光男倉義和磯村嘉孝

ヤクルト 宇佐美一雄(兼任コーチほか)、水谷新太郎宮城弘明鈴木平、アルメンゴ☆(2018〜)

楽天 益田大介、吉崎勝土屋朋弘ファルケンボーグウィーラー
(☆は現役)

広島では達川から捕手の系譜に


広島・達川光男


 傾向が異なるのは巨人と中日。巨人の初代はテスト入団の松田清。着けたのは49年だけで、51年に19連勝、その翌52年の1勝と合わせた連続シーズン20連勝。すぐに西鉄の稲尾和久が並んだものの、2013年に楽天の田中将大が更新するまで長くプロ野球タイ記録だった。

 その後、日系人スラッガーの“エンディ”宮本敏雄を経て、投手の出世ナンバーに。南海のエースとなった山内新一、左腕の新浦寿夫、変則サイドの小林繁ら、豪華な顔ぶれが若手時代に着けていた。近年ではFAで日本ハムから加入した河野博文が継承してセットアッパーとして活躍している。

 中日は10球団の入札による争奪戦が問題となった空谷(のち児玉)泰から、のちに名スカウトとなる法元英明を経て大島康徳の出世番号となり、トレードを拒否した藤波行雄が「3」から“降格”するなど波乱万丈だ。

 球史に残る韋駄天が若手時代に着けた背番号でもある。まずは阪急の福本豊が69年の入団から3年間。続いて広島で高橋慶彦が75年の入団から同じく3年間を「40」で過ごした。

 これを継承したのが捕手の達川光男だ。コーチや捕手もいた広島の「40」だったが、6年目の83年に正捕手の座をつかむと、その後も不動の司令塔として投手王国を支え、黄金時代の大黒柱に。独特のキャラクターと生粋の広島弁で攻守にわたって逸話も多い。以来、広島では倉義和、磯村嘉孝らに受け継がれる捕手の系譜となっている。

写真=BBM

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