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追悼・星野仙一

追悼企画28/星野仙一、野球に恋した男「着々と近付いてきた18年ぶりの歓喜の瞬間」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

加速したVロード


歓喜の時は着々と近づいていた


 2003年、独走状態となって以後、星野監督は逆にすさまじいまでの重圧を感じたという。

「ここまで来て、優勝逃したら、どんなことになるんや。もう日本には住めんやろうな」と考え込んだこともあった。

 さらに持病の高血圧と糖尿病に加え、日に日に胃の調子も悪化。7月27日の中日戦(ナゴヤドーム)では初回の攻撃中、血圧が165まで上昇し、嘔吐した。ベンチ裏で横になって5回表から再び指揮を執った。

「何でもないのに死にそうに書きやがって」と報道陣に毒づいたものの、8月にはひそかに精密検査も受けた。

 悲鳴を上げる体とは裏腹に、8月末からVロードは加速する。8月27日から7連勝。8月30日に75勝でマジック12、9月2日の広島戦(広島)では、伊良部秀輝が5球団すべてから勝ち星を挙げ、マジック9、3日には赤星憲広が1954年の吉田義男を抜く、球団新記録となる53盗塁でマジック7とした。

 あの85年以来となる18年ぶりの優勝まで秒読み段階に入った13日、母・敏子さんが肺炎で他界。14日の通夜には駆けつけたが、翌日の葬儀には参列できなかった。

「なんでや、なんで優勝まで生きとらんかったんや」

 涙を拭くと、すぐ“戦場”に戻った。

 迎えた9月15日、マジック2の広島戦は14時からのデーゲームだった。今日にも優勝が決まる甲子園には前夜から多くのファンが詰めかけていたため、8時にはすべて開門。徹夜組を含む8300人が一気に入場した。

 テレビのリポーターがその一人に聞いた。

「いつから並んでいました?」

「18年前からです」

 みんな待ちに待っていた。

<次回へ続く>

写真=BBM
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