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背番号物語

【背番号物語】「#80〜89」(後編)ホークスに受け継がれた“黄金の系譜”

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

多士済々の名将が並ぶ「81」



 猛虎フィーバーに沸いた1985年、阪神吉田義男監督の背に輝いていたのが「81」。翌86年、コーチ時代の「81」で復帰して日本一の座を奪ったのが西武森祇晶監督だ。その「81」は根本陸夫監督から継承したことは前編で、根本がチームの土台作りで他の追随を許さないことは「68」で触れた。

 根本に見出され、森に鍛えられ、根本が礎を築いたダイエーを日本一に導き、のちにソフトバンクの監督として「81」を背負ったのが秋山幸二だ。同様に現役時代は西武から加入し、2015年に後任となった工藤公康監督は「81」も継承。根本からの“黄金の系譜”だ。

 のちに森は横浜でも「81」の監督となるが、その横浜では大洋時代からの監督ナンバー。生え抜きの土井淳、アイディアマンの近藤貞雄広島黄金時代を築いた古葉竹識、“マシンガン打線”の生みの親ともいえる大矢明彦らがリレーしていたが、誰ひとりとして優勝監督はおらず、そこに森が合流した形だ。

 その系譜の初代に至るのが好打者の高木好一で、公務員出身の変わり種が1年目の72年だけ着けた最初の背番号。「81」で一軍にも出場してプロ初安打も放っている。中日の初代にいるのが同じく好打者の平野謙だが、投手だった1年目だけで、「81」での一軍出場はない。その後継者となったのが94年に巨人と“10.8”を戦った高木守道監督だ。

 ロッテの「81」には有藤道世監督、近藤昭仁監督もいるが、その後継者が99年に二軍監督となった平野だった。監督の「81」は近年も受け継がれていて、楽天のブラウン監督、オリックス大石大二郎監督らがいる。

欠番が続く鷹の「89」


ダイエー・王貞治


「82」には「足して10になる数字」がブレない阪神の野村克也監督。「83」は2002年に巨人の原辰徳監督が就任1年目の日本一に輝いたナンバーで、現役時代の「8」と、前任の長嶋茂雄監督にとっては一心同体ともいえる「3」を合わせた形だ。06年に「88」で復帰したが、09年WBCでは「83」で指揮を執っている。

 その「88」時代にコーチを務め、10年の開幕後に急逝した木村拓也コーチが着けていたのが「84」。斎藤雅樹コーチは02年から指導者としては一貫して「85」だ。

 18年は西武の辻発彦監督が「85」の監督。「85」はヤクルトで外国人打者のミレッジが希望して飯田哲也コーチから譲ってもらったナンバーでもあり、その初代は野村克晃。のちにエージェントとして多くの日本人選手をメジャーに送り込んだ団野村だ。

 18年、「86」と「87」の選手がロッテに登場。ボルシンガーシェッパーズら助っ人が連番で並ぶ。ロッテではロブソン、ランペンの両コーチが04年から3年間、「82」と「83」に並んでいたこともあった。

 日本ハムで「86」を着けたのは長い歴史において1人しかいない。“親分”大沢啓二監督だ。「87」には、誕生日が8月7日で、苗字に「ハナ」がつく尾花高夫。ダイエーのコーチとなった99年から巨人のコーチを退任した17年まで、指導の現場で背負い続けた。

「88」は原監督同様、現役時代は「8」の強打者だった山本浩二監督が広島を優勝に導いたナンバー。同時代の好打者では楽天の初代となった田尾安志監督もいる。阪急時代は古い監督ナンバーにこだわっていた上田利治監督が着けてから日本ハムでも監督ナンバーとなり、日本一に導いたヒルマン監督、リーグ優勝の梨田昌孝監督へと受け継がれた。

「89」はダイエーの監督に就任してソフトバンクに至る黄金時代を率いた王貞治の新しいトレードマーク。「ヤ・キュウ」の語呂合わせで、九州ホークスにとって栄光のナンバーと言える。王監督の退任後は欠番だ。

写真=BBM
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