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追悼・星野仙一

追悼企画35/星野仙一、野球に恋した男「楽天監督1年目、つらいスタート」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

ポツリと「きついわ」


1年目はつらいスタートとなった


 前回紹介したインタビューが2011年3月3日のものだった。

 その後、3月11日、東北地方を中心に東日本が未曾有の大地震に襲われた。地震発生時、楽天・星野仙一監督は、兵庫県明石球場でオープン戦を行っていた。

 翌12、13日のオープン戦は中止となったが、被害のすさまじさと、交通機関の問題もあって、仙台に帰ることはかなわず、在来線と新幹線で横浜に移動し、13日から巨人の室内練習場を借りて練習を再開した。

 仙台に戻れぬまま18日、ナゴヤドームで震災後初のオープン戦(対中日)。試合後、星野監督は「野球をやらせてもらって申し訳ない。1日も早く被災地が立ち直れるような元気あるチームにしたい」と沈痛な表情で語った。

 その後もチームは神戸をベースとし、仙台に戻ったのは開幕を5日後に控えた4月7日だった。そのまま避難所となっている市内の中学を訪れた星野監督は「遅くなって本当にすいません。ペナントレースでは必ず皆さんにいい報告をします」とまた頭を下げた。
 当時の心境に触れた記事は、本誌にはほとんどない。ただ、最愛の夫人を亡くした経験を持つ星野監督が、東北の地の悲劇に大きな衝撃を受けていたことは想像に難くない。
 しかも「闘将」と呼ばれ、チームを束ねる以上、弱音は見せられなかった……。

 当時のことを中日に同じ69年に入団した大島康徳が本誌連載のコラムの中で振り返った個所がある。大島が年下だが、2人は若手時代、毎日のように一緒だった“親友”である。以下抜粋。

 弱音は絶対に言わなかった。付き合いがこれだけ長い僕でも、仙さんの弱音を聞いたのは一度だけです。2011年「3.11」の大震災のときですね。あのとき、1カ月くらいチームは仙台に帰ってこられなかったでしょ。それをいろいろ言う人もいたし、チーム内も一枚岩じゃなかったと思うんです。しかも就任1年目ですよ。大変だったと思います。

 開幕前、オープン戦で仙さんと会ってしゃべっているとき、どういう流れかは忘れましたが、

「きついわ」

 とポツリと言ったんですよ。

 びっくりしました。そんな仙さん初めてだったんで……。

 僕は「大変なのは分かるけど、こういうときに監督になって、乗り切れる人って、仙さんしかいないよ。ほかの人じゃ絶対できない。乗り切ったら絶対いいことあるから、体に気をつけて頑張ってくださいよ」と言ったんです。

 そのあと仙さんは、何も言わなかった。ずっと黙っていました……。

<次回へ続く>

写真=BBM
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