星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) ポツリと「きついわ」
1年目はつらいスタートとなった
前回紹介したインタビューが2011年3月3日のものだった。
その後、3月11日、東北地方を中心に東日本が未曾有の大地震に襲われた。地震発生時、
楽天・星野仙一監督は、兵庫県明石球場でオープン戦を行っていた。
翌12、13日のオープン戦は中止となったが、被害のすさまじさと、交通機関の問題もあって、仙台に帰ることはかなわず、在来線と新幹線で横浜に移動し、13日から
巨人の室内練習場を借りて練習を再開した。
仙台に戻れぬまま18日、ナゴヤドームで震災後初のオープン戦(対
中日)。試合後、星野監督は「野球をやらせてもらって申し訳ない。1日も早く被災地が立ち直れるような元気あるチームにしたい」と沈痛な表情で語った。
その後もチームは神戸をベースとし、仙台に戻ったのは開幕を5日後に控えた4月7日だった。そのまま避難所となっている市内の中学を訪れた星野監督は「遅くなって本当にすいません。ペナントレースでは必ず皆さんにいい報告をします」とまた頭を下げた。
当時の心境に触れた記事は、本誌にはほとんどない。ただ、最愛の夫人を亡くした経験を持つ星野監督が、東北の地の悲劇に大きな衝撃を受けていたことは想像に難くない。
しかも「闘将」と呼ばれ、チームを束ねる以上、弱音は見せられなかった……。
当時のことを中日に同じ69年に入団した
大島康徳が本誌連載のコラムの中で振り返った個所がある。大島が年下だが、2人は若手時代、毎日のように一緒だった“親友”である。以下抜粋。
弱音は絶対に言わなかった。付き合いがこれだけ長い僕でも、仙さんの弱音を聞いたのは一度だけです。2011年「3.11」の大震災のときですね。あのとき、1カ月くらいチームは仙台に帰ってこられなかったでしょ。それをいろいろ言う人もいたし、チーム内も一枚岩じゃなかったと思うんです。しかも就任1年目ですよ。大変だったと思います。
開幕前、オープン戦で仙さんと会ってしゃべっているとき、どういう流れかは忘れましたが、
「きついわ」
とポツリと言ったんですよ。
びっくりしました。そんな仙さん初めてだったんで……。
僕は「大変なのは分かるけど、こういうときに監督になって、乗り切れる人って、仙さんしかいないよ。ほかの人じゃ絶対できない。乗り切ったら絶対いいことあるから、体に気をつけて頑張ってくださいよ」と言ったんです。
そのあと仙さんは、何も言わなかった。ずっと黙っていました……。
<次回へ続く>
写真=BBM