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プロ野球回顧録

雑草魂で頂点を極めた上原浩治の野球人生

 

10年ぶりに古巣・巨人のユニフォームを着ることになった上原浩治。高校時代は控えだった男がメジャー・リーグの舞台にも立った。“雑草魂”を貫いている、野球人生を振り返ってみよう。

1年間の遠回り


巨人1年目の上原浩治


 父親が監督をしていたチームで野球を始めたが、さほど本格的ではない。中学時代は陸上部にも入り、三段跳びや幅跳びをしていた。「自転車で通えて、野球が強い」という理由で選んだ東海大仰星高時代はセンター。3年時に投手に転向したが、最後まで控え投手だった。当時のエースがのちに日本ハム入りした建山義紀だ。

 高校時代の公式戦通算投球回はわずか6回1/3。ただ、連日、打撃投手を買って出て、球数はそれなりに投げている。持ち味である制球力とテンポの良い投げ方は、この時期に鍛えられたものである。

 当時はプロなど別世界だ。体育教師を目指し、大体大の入試を受けるも不合格。これが転機となった。勉強とともに、体も鍛えておいたほうがいいというアドバイスもあり、ジムでトレーニングをし、体のメカニズムを勉強した。『ノーラン・ライアンのピッチャーズ・バイブル』をむさぼるように読んだのも、この時期だ。出遅れた悔しさや焦りもあったが、のちにつながる多くの糧を得た1年でもあった。

 一浪し、大体大に入学。野球部に入った。1年間、ほとんど野球はしていなかったが、理論立てたトレーニングで、しっかりと体が出来上がったことに加え、自身の長身を利したフォームの研究も奏功。見違えるほどの成長を遂げていた。

 1年春からエース格となる。大学選手権での東北福祉大・門倉健(のち中日ほか)と延長11回を投げ合い、その名が全国区となった。

 3年時、97年の日米大学選手権では14奪三振、メジャー球団の注目を集めると、インターコンチネンタルカップでは国際大会151連勝中のキューバを決勝で破り、世界一に導く。この試合、四番で5打点を挙げたのが、のち巨人でチームメートとなる慶大の高橋由伸。1学年上だが、生年月日はまったく同じだ。

 当時のピッチングは速球とスライダーがメーンで、ナックルカーブで緩急をつけた。4年間で通算36勝、うち13完封とリーグ戦の成績も圧倒的だった。

 プロ入り時はメジャー・リーグのエンゼルスも獲得に動き、本人も将来の目標としてメジャーを掲げていただけに迷ったが、「まだ早い」と考え、逆指名1位で1999年巨人に入団した。

「メジャーはひとまず夢として置いておきます。いまは巨人でしっかり頑張りたい。エリートに負けたくないんでね」

 このエリートという言葉に、横浜高から鳴り物入りで西武に入団した松坂大輔を連想した人も多かったが、実際は1学年上ながら同年齢の川上憲伸(明大−中日)と高橋のことだった。大学の野球部は年齢が同じでも、学年が上なら敬語を使うが、上原は憲伸、由伸と呼んでいた。背番号は19歳で過ごした浪人を忘れたくないと「19」を選んでいる。

ルーキーイヤーの快挙


抜群の投球で1年目から20勝をマークした


 当時、上原が自身のハングリー精神を象徴する言葉としてよく使ったのが“雑草魂”だ。自主トレ初日にも目標を聞かれ、「雑草魂で流行語大賞を狙います」と言って笑った。

 ただ、1年目の活躍はとても“雑草”のできることではない。すさまじい勢いで勝ちまくり、5月30日からは新人記録の15連勝。大学時代から投球スタイルを少し変え、スライダーを減らし、ナックルカーブも封印した。

 新たな武器にしたのが、フォークボールだ。これがピタリとはまる。フォークというと、コースは大雑把でワンバウンドするような変化の球が多いが、上原はしっかり内外角に投げ分け、指先の感覚で落とし方を微妙に変えた。

 同年、優勝は逃したが、Vチームの中日の左腕・野口茂樹と勝利数、防御率とも競り、20勝、2.09で最多勝、最優秀防御率、さらに沢村賞にも輝く。10月5日、20勝目を挙げたヤクルト戦(神宮)では、チームの先輩・松井秀喜とホームラン王を争うペタジーニに対する敬遠の指示に涙を流し、マウンドを蹴っ飛ばしたこともある。それまで14打数無安打、6奪三振と完璧に抑え込んでいただけに勝負したかった。

「それまでの2打席は拒否したんですが。向こうも(松井を敬遠)しているんで、仕方がなかった。マウンドを蹴ったことは後悔しています」

 投球テンポの速さにも驚かされた。コントロールもいいので、試合時間が短く、1時間59分の完投試合もあった。当時、巨人戦はほぼ全試合が地上波中継。たいてい9時過ぎまでやっていたので、上原の登板時は、早く終わった後の穴埋めに何を流すのかが話題となった。

 また、ローテの合間にはブルペンに入らず、遠投で調整。「実際のマウンドに立ったとき、近く感じられていい」と話していた。決して反抗的というわけではないのだが、新人ながら、球界の“常識”にも納得しない限り、絶対に従わなかった。投手転向が遅く、我流でピッチングスタイルを組み立てたからでもある。

 2000、01年は故障もあって9勝、10勝。ただ、どこに問題があったのかと尋ねると「ずっとケガに泣かされただけ。どこを反省しようとは考えていないですね」と負けず嫌いが顔を出す。

 02年には17勝で2度目の最多勝に輝き、自身、「どれか1個だけ飛び抜けていても取れない。先発投手である以上、最も目標とするタイトルです」と語っていた沢村賞も手にしている。この年は日米野球で、あのバリー・ボンズ(当時SFジャイアンツ)から3打席連続三振もあった。

 03年は7連続完投勝利もあり、16勝。04年はケガによる離脱、さらにアテネ五輪で抜けた時期もあったが、最優秀防御率に輝く。07年には故障による出遅れや、抑えの豊田清の不振もあって、抑えに回って32セーブ。8月には球団記録の月間11セーブもマークし、優勝に貢献した。

 その間、国際大会では圧巻の強さを誇った。06年には第1回WBC日本代表にも選ばれ、日本が2敗している韓国戦に準決勝で登板し、勝利投手に。08年の北京オリンピックでも抑えとして活躍。国際試合では、アマ時代から通算で25試合、12勝0敗2セーブをマークしている。メジャー関係者の評価も高まり、本人の思いもふくらんでいった。

“世界のウエハラ”に


2013年、レッドソックスで世界一の胴上げ投手に(写真=Getty Images)


 09年にはFAでオリオールズ入りし、あこがれのメジャーへ。まずは先発だったが、右ヒジや足のケガで1年目はほとんど活躍できず、2勝4敗に終わった。2年目の途中先発からリリーフに回るも、またも故障。この時期、引退も頭をよぎったという。

 しかし、6月末に復帰し、本領発揮。クローザーとして起用され、1勝2敗13セーブ。翌年はセットアッパーで防御率1.72。前年からの連続無四球試合も36試合に伸びた。

 7月にレンジャーズへ移籍し、13年はレッドソックスへ。前年から続く連続無失点は27試合となり、73試合に投げ、4勝1敗21セーブ、防御率は1.09だ。さらにリーグチャンピオンシップのMVP、世界一の胴上げ投手など、完璧なピッチングを見せ、“世界のウエハラ”となった。レッドソックスには16年まで所属し、17年はカブスへ。そして今年、古巣の巨人へ復帰することが決まった。

 100マイルの速球があるわけではない。精密機械のような制球力で速球、変化球を投げ分けるピッチングスタイルは、もはや芸術品だ。

 開幕直後に43歳になるが、衰えも感じられず、そのパフォーマンスはさらに進化しているようにさえ見える。この男の本当の伝説は、ここから始まるかもしれない。

写真=BBM
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