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追悼・星野仙一

追悼企画40/星野仙一、野球に恋した男「勝負師のケジメで辞任表明」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

「いつまでもうるさいじいさんでいるぞ!


まさか日本一翌年が最後になるとは……


 2014年、楽天は前年24勝無敗の田中将大がメジャー移籍。その穴はあまりに大きく、厳しい戦いが続いた。

 そんな中、もともと多くの持病を持っていた星野仙一監督の体が悲鳴をあげる。5月27日からは腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症による手術とリハビリのため2カ月間の休養もあった。

 復帰後もチームは低迷した。ただ、星野監督の表情には、不甲斐なさへの怒りより、「仕方ないな」という達観の表情があった。
 失礼ながら「闘将星野も老いたな」と感じた。

 おそらく、それを誰よりも感じていたのは、星野監督自身だった。
 9月18日のロッテ戦(コボスタ宮城)を1時間後に控え、星野監督は三木谷浩オーナーと辞任会見の席に着く。「直接の原因は成績。しかも、私が2カ月間も戦場から離れた。やはり勝負師として、シーズンを離れるということはあってはならない。そういう思いで決意した」と吹っ切れたように語った。

 昨オフに複数年契約を結び、球団側も続投を既定路線に考えていたが、9月上旬に三木谷オーナーに辞意を伝え、強く慰留されたが、決意は固かった。

「勝負師として1年、1年が勝負。昨年と比較すれば天と地。休んだことを含めてこの数字というのが許せない」

 言い訳はいくらでもできるが、それをしなかった。

 7月下旬に現場復帰したときから、辞意が頭にあったという。

「(入院中『早く帰ってきて』というような、うれしい声を聞いた中で早く戻らなきゃいけないと思った。復帰してからも『こんなことじゃいけないな』と。その辺りでひそかに今シーズン限りということで決意していた」

 指揮官は選手たちに辞任を伝えた際、「いつまでもうるさいじいさんでいるぞ! 覚悟しとけよ」と伝えたという。三木谷オーナーは「より高いところから球団に関わっていただきたい」と言った。その後、球団副会長としての精力的な活動は、みなさんもご存じのとおりだ。健康面に不安を感じ、一歩引いたところでできる限り、球界に貢献しようと決めたのだろう。

<次回へ続く>

写真=神山陽平
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