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プロ野球世代別ベストナイン

【世代別ベストナイン】「1926〜29年」豪華な少数精鋭の“昭和初期世代”

 

プロ野球史を彩ってきた数多くの名選手たち。生まれた世代ごとに週刊ベースボールONLIN編集部がベストナインを選定して、“史上最強世代”を追いかけてみる。

戦争の影響で選手数が激減



 1926年から29年に生まれた世代は、プロ野球選手になろうとする時期が戦争の激化した時期、あるいは戦後の焦土から立ち上がろうとしていた時期と重なる。戦前、あるいは戦中からプロでプレーしていたならまだしも、新たにプロ選手としての道を歩み始めるには、さまざまなハードルが立ちふさがり、そのハードルの高さも他の世代を圧倒していたことは想像に難くない。

 多くの逸材が光の当たらないまま埋もれ、あるいは命を奪われていったのだろう。実際、この4年間は極端に選手の数が少なく、戦争の影響を強く受けた世代だったことが分かる。ここでは大正末期から昭和初期にかけての4年間の“連合軍”を組んでみると、投手力、機動力、破壊力のバランスがいいラインアップとなった。

【1926年から29年に生まれた選手のベストナイン】
※()内は所属チームと生まれた年。ただし同年4月2日から翌年の4月1日生まれ。

投手 長谷川良平(広島。1929)

捕手 根本陸夫(近鉄。1926)

一塁手 川合幸三(阪急。1929)

二塁手 ダリル・スペンサー(阪急。1929)

三塁手 蔭山和夫(南海。1926)

遊撃手 ラリー・レインズ(阪急。1929)

外野手 田宮謙次郎阪神ほか。1927)
    杉山光平(南海ほか。1927)
    関根潤三(近鉄ほか。1926)

指名打者 島原輝夫(南海。1926)

 少数精鋭ながら、投手陣は充実。ベストナインには通算197勝の長谷川良平を置いたが、173勝の荒巻淳でもいい。長谷川は広島の創設期をエースとして支えた右腕で、55年に30勝を挙げて最多勝に。低迷する広島での通算208敗も勲章と言える“小さな大投手”だ。

 2リーグ分立の50年に26勝で毎日の優勝、史上初の日本シリーズ制覇を引っ張った荒巻は“火の玉投手”と呼ばれた左腕で、長谷川と左右両輪で投手陣を引っ張る存在。これに続くのは、2度のリーグ最多奪三振、3度の20勝以上をマークした米川泰夫(東映ほか。1927)。54年の最多勝、55年にパ・リーグ初の完全試合を達成した武智(田中)文雄(近鉄。1926)もいる。4投手すべて、通算防御率は2点台だ。

左打者や監督の多い“頭脳派世代”


阪急・スペンサー


 主砲の田宮謙次郎も当初は投手で、1年目には11勝、あわや完全試合というゲームもあった。外野の関根潤三も同様で、投手としてプレーしていた時期は田宮よりも長く、投手専任、野手専任の両方でオールスターに出場した唯一の選手でもある。

 田宮、関根とともに外野陣を形成するのが“円月打法”の杉山光平だ。田宮は58年のセ・リーグ首位打者、杉山は59年のパ・リーグ首位打者。3人とも左打者で、一塁を守る俊足巧打の川合幸三、指名打者の島原輝夫と合わせて9人中5人が左打者というのも大きな特徴だろう。

 二遊間を組むのは阪急の助っ人。ナイターに強く“夜の勇者”と呼ばれた時代の阪急で、盗塁王、首位打者となったのが遊撃の“黒いハヤブサ”レインズ。およそ10年後の阪急で“野球博士”と呼ばれたのが二塁のスペンサーで、サイクル安打を日本に普及させた存在としても知られる。

 蔭山和夫は南海“百万ドルの内野陣”の頭脳派三塁手でもあり、現役引退後も鶴岡一人監督を参謀として支えた。就任4日後に急死したため監督としての手腕は未知数だが、のちに監督となった選手が多いのも、この世代の特筆すべき点だろう。

 選手や監督として以上にフロントとして手腕を発揮したのが捕手の根本陸夫。頭脳プレーで負けないチームを築いてくれそうだ。

写真=BBM
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