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石田雄太の閃球眼

【石田雄太の閃球眼】伝説の始まり

 

1999年3月11日の巨人とのオープン戦で打ち込まれる当時西武ルーキーの松坂大輔。手前はホームランを放った高橋由伸


 今から25年前、ピオリアで18歳のスーパールーキーを取材したことがある。それが当時、ドラフトで全体の1番目に指名されてマリナーズと契約したばかりのアレックス・ロドリゲスだった。高校時代、野球で卓越していたのは言うまでもないが、バスケットボールでもアメリカンフットボールでも活躍しており、そんな話をいろいろ聞かせてもらった後、同じくマリナーズとマイナー契約を交わしたばかりの日本人、マック鈴木についても質問してみた。そのときのA-RODの言葉は、今でもハッキリ覚えている。

「マック? ああ、彼は数年後にはメジャーで投げられる力を持ったピッチャーだと思うよ。僕は来年からメジャーだけどね(笑)」

 ビックリした。

 イの一番に指名されたトップ・プロスペクトだとは聞いていたが、あまりにも自信満々な18歳の強気な言葉にあっけにとられたことをよく覚えている。実際、A-RODはその翌年、1900年以降のショートとしては史上3人目となる18歳でのメジャーデビューを果たし、その2年後にはメジャー史上3番目の若さで首位打者を獲得している。

 自信満々の18歳が発した言葉といえば、日本でも覚えがある。

 今から19年前の1999年3月、18歳のルーキーは侃々諤々の議論を巻き起こしていた。横浜高を甲子園で春夏連覇に導いた松坂大輔は、果たしてプロで勝てるのか、否か――オープン戦で結果を出すことができないだけで「平成の怪物もしょせんは高校生じゃないか」と囁かれ始めていたこの時期、松坂に対する懐疑的な声が飛び交い始めていたのである。そのきっかけになったのが3月11日、西京極で行われたジャイアンツとのオープン戦だった。

 先発して4イニングを投げた松坂は8失点のメッタ打ちを喰らった。やれクセが出てるだの、フォームがよくないだのと、したり顔で語る酷評が飛び交う中、18歳の松坂はこう言っていた。

「ホームランを打たれたのは、全部、ここへ投げたら打たれるかなと思って、試してみた球ばっかりです。ノーストライク、ツーボールから緩い真っすぐを内角に決めてカウントを取りたいという狙いもあったんですけど、まだ未熟なんで(笑)、打てるコースへいっちゃいました。高校のときは相手のバッターの考えていることがすぐに分かったけど、プロの世界ではまだまだですね」

 打たれているのに自信満々の松坂に、「じゃあ、そういうつもりじゃないボールは一本もホームランされてないのかな」ときいてみた。すると彼はニヤッと笑って、こう切り返してきた。

「さすがに、そこまでは言いませんけど(笑)。でも、そうでないところへ投げたボールでは、しっかり抑えられたと思います」

 その3日後の3月14日、松坂は甲子園球場のブルペンで、投げ込みを行った。甲子園の三塁側ブルペンと言えば、PL学園との準々決勝、延長17回、高々と舞い上がった決勝アーチを見送って目を潤ませた、あの場所だ。この日のタイガース戦に登板予定のなかった松坂は、その三塁側のブルペンで101球を投げた。印象的だったのは、グラウンドへ出ていくライオンズの選手たちが足を止めて18歳のピッチングを見つめていたことだ。プロの先輩は何を思ったのか、やがて無表情を装って走り去る。松坂はこう言っていた。

「悩んでた? いえ、全然(笑)。深刻には考えないほうですから」

 あのとき、世の中は松坂に対して「お前は本物か」という品定めを行っていた。それでも松坂は、どこに何があるのか、きちんと分かっていた。狂っていると分かっていたフォーム、打たれると分かって試した配球、窮屈だと分かっていて限定した変化球……そして結果が欲しいなら出してやるよとばかり、最後に築いた三振の山。のちに生まれる数々の松坂伝説は、ここから始まっていた。

 メジャーではルーキーの大谷翔平も、日本で注目を集める清宮幸太郎も、今、“品定め”という目に晒されている。A-RODも松坂も、強がって勢いのある言葉を発したわけではない。揺らぐことのない自信が備わっていたから、言葉にその上澄みがにじみ出ていたのだ。そして大谷の言葉からも清宮の言葉からも、同じような自信を感じてきた。だから、品定めなどしないで、彼らの秘めたる自信を感じてみようじゃないか。彼らの築くべき伝説は、まだ、始まったばかりなのだから――。

文=石田雄太 写真=BBM
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