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プロ野球回顧録

“世界の鉄人”が逝く――。全力プレーを貫いた衣笠祥雄氏の不屈の野球人生

 

広島の黄金期に中心打者として活躍し、2215試合連続試合出場の世界記録(当時)を樹立、国民栄誉賞も獲得した衣笠祥雄氏が死去したことが4月24日、分かった。享年71歳。広島の低迷期から黄金時代を通し、グラウンドに立ち続けた男。ただ、試合に出続けたわけではない。攻守走、常に全力プレーを怠らなかった“世界の鉄人”であった。

打撃ではフルスイング、走塁では全力疾走


すべてにおいて全力プレーを貫いた


 1970年10月19日の巨人戦から、87年10月22日の横浜大洋戦まで足掛け18年、広島カープの試合には、いつも衣笠祥雄の姿があった。

 白と紺を基調にしたユニフォームに身を包んだ背番号28の時代から、赤い帽子がひときわ映えた背番号3の時代まで、衣笠は常にカープとともにあった。

 連続試合出場記録、衣笠の名前を世に知らしめたのは、この18年間にわたって衣笠が積み重ね、毎日のようにプレーをした証となる数字だ。

 身長175センチ、体重は70キロ台で推移した。プロ野球選手としては決して大きいとは言えない体。それでも衣笠は打撃ではフルスイングに、走塁では全力疾走にこだわり、守備でも緊張感を切らさず、全身全霊をひとつのボールに懸けた。

 18年のうちには苦しいシーズンもあった。いつもいつもファンに納得してもらえるような成績を残せるわけではない。不振に悩み、ファンから罵声を浴びたことも何度もあった。連続試合出場記録が注目を集めるようになると、調子を落とせば、「記録のためだけに試合に出ているじゃないか」という批判の声を上げる人もいる。自分が試合に出続けることで、将来性のある若い選手たちの出場機会を減らしているのではないかと自問して苦しむこともあった。

 実際のプレーで、恥ずかしくない数字を残さないと、「記録のためだけに試合に出ているんじゃない」と叫んでも、ファンも関係者も納得してくれない。衣笠の現役生活の終盤はそういう内なる敵との戦いだったといえるのかもしれない。

「野球の神様に感謝します」


1987年6月13日の中日戦で2131試合連続試合出場の世界記録(当時)を達成


 その野球人生は、決して恵まれたスタートを切ったわけではない。平安高で打力のいい強肩捕手として注目され、多くの球団が獲得に動いたなかで、衣笠は「(チームが弱いから)早く試合に出られそうだ」という考えで広島への入団を決めた。

 ところが、いきなり2月のキャンプで張り切り過ぎて、その“売り物”の右肩を痛めてしまう。思いどおりのプレーができない憂さを車や酒で晴らしたこともあったという。

“クビ”のピンチもあった。そんなとき、衣笠の野球選手としての道筋を作ってくれたのが、68年にヘッドコーチから監督に就任した根本陸夫の存在だった。

 根本は毎日のように衣笠を説いた。「今、何をすべきか。衣笠祥雄という野球選手は何をしたいのか」を、分かりやすく語りかけた。同時に根本が呼び寄せた関根潤三広岡達朗らのコーチ陣からも同様に、衣笠の野球人生にとって礎となる技術、考え方をたたき込まれた。

 衣笠は「あのころの数年間があったから、長く野球を続けていくことができた」と感謝の気持ちを忘れなかった。

 基礎を作ったのが60年代後半の数年間であれば、ターニングポイントとなったのは75年だった。新監督に初の外国人監督、ルーツが就任。トレード、チームの意識改革に奔走した。衣笠も三塁へコンバート、背番号も「3」に変わった。

 ルーツは開幕して1カ月で監督を辞したが、あとを継いだ古葉竹識監督のもと、初優勝へと突っ走った。衣笠も主に五番打者として攻守に活躍。チームの初優勝へ、大きな力となった。

 4年後には、衣笠、山本浩二らの打撃陣が力を蓄えてきたのに加え、投手陣も、江夏の加入で安定し、2度目のリーグ優勝、初の日本一、翌年も日本一の座に就いた。その間の衣笠は、長く打ってきたクリーンアップだけでなく、一、二番をこなし、走ることでも活躍、盗塁王を獲得したこともあった。

 不動の四番・山本浩二、不屈の鉄人・衣笠祥雄は、強い広島カープの象徴的な存在となっていた。

 1試合も休むことなく出続けた試合は86年には2000試合を超え、87年、メジャー・リーグのルー・ゲーリッグが持っていた2130試合を抜き、“世界一”の座に。そのとき衣笠は真っ赤に染まった広島市民球場のファンに語りかけるように、「野球の神様に感謝します」と口にした。野球人生のクライマックスとも言える瞬間だった。

衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)
1947年1月18日生まれ。京都府出身。右投右打。身長175センチ、体重73キロ。平安高では「四番・捕手」として64年春夏連続甲子園出場。翌65年の広島入団時も捕手だった。一塁手にコンバートされ、68年にレギュラーに定着し、70年終盤から現役引退の87年まで2215試合に出場し続けた“鉄人”。75年のVイヤーから三塁に回った。攻守走にわたって躍動感ある全力プレーでファンを魅了した。連続試合出場は当時の世界記録であり(現在も日本記録)、87年6月には国民栄誉賞も授与されている。通算成績は2677試合出場、2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁、打率.270。主なタイトルはMVP(84年)、打点王(84年)、盗塁王(76年)。

写真=BBM

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