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伊原春樹コラム

私と巨人01 弱小球団から盟主へ その違いに驚き/伊原春樹コラム

 

子どものころは南海ファン


巨人時代の伊原春樹


 私は広島出身だが、子どものころは南海ファンだった。家の近所に京都出身で南海好きのお坊さんがいた。そのお坊さんに「南海ファンになったら、お供え物をあげるぞ」と言われたのがきっかけだった。周囲は当然、広島ファンが多く、アンチ巨人ばかり。南海ファンの私が強烈に巨人に対して“アンチ”の感情を抱いたのは1961年、巨人対南海の日本シリーズだった。当時、民放の巨人公式戦は私の田舎ではテレビに映らない。だが、日本シリーズだけはNHKで流れるので目にすることができた。

 南海の1勝2敗で迎えた第4戦(10月29日、後楽園)で“事件”は起きた。3対2と南海リードの9回裏二死満塁、マウンドのスタンカ宮本敏雄さんを2ストライクと追い込んだ。そして投げ込んだ1球が真ん中へ。宮本さんが見送って、ゲームセットと思われたが球審の円城寺満さんの判定はボール。捕手の野村克也さんや監督の鶴岡一人さんが猛抗議するも判定は変わらず結局、宮本さんがサヨナラ打を放ち、日本シリーズも巨人が4勝2敗で制した。この判定に関して「円城寺 あれがボールか 秋の空」という句が広まったが、私も子ども心に非常におかしい判定だと感じた。それは鮮明に覚えている。

 時は流れ、71年に芝浦工大からドラフト2位で西鉄ライオンズに入団した私が初めて巨人のユニフォームにソデを通したのは76年のことだった。関本四十四玉井信博との交換で加藤初とともに太平洋クラブライオンズから移籍。ちょうど長嶋茂雄監督2年目のことだった。

 私が西鉄に入ったときは“黒い霧事件”の直後で球団が弱体化。「いろいろあったけど、皆さん頑張ってください」とフロントから優勝の“ゆ”の字も出ない。その後、太平洋に身売り。動乱の時代だっただけに、巨人へ移籍してフロント、現場が日本一へ向かって一体となっている状況はそれまでとギャップがあり過ぎて驚いた。正力亨オーナーから「メジャーに追いつき、追い越せ」という言葉も聞いた。とにかく球界の盟主としてのプライドが昔から脈々と受け継がれ、伝統となっている。だからこそ、V9も成し遂げられたのだと実感した。

 当然その分、戦力層も厚い。私もトレードを聞いたとき、最初は嫌だった。自分が試合に出ることができるか。巨人のメンバー表に目を通してみると、それもなかなか難しい。ちょうどその年、張本勲さんも日本ハムから巨人に来て、レフトを守ることを希望し、高田繁さんがサードへコンバートされた。私の本職もサードだったから、高い壁がそびえ立っていた。結局、私は巨人時代の2年間、一軍出場は9試合にとどまった。

写真=BBM

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