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石田雄太の閃球眼

時代遅れの全権監督。日大問題は他山の石/石田雄太の閃球眼

 

 真っ先に思い出したのは『MAJOR』に登場する、海堂学園高の蒲田のことだった。一塁へ駆け込む聖秀学院高の茂野吾郎の足をわざと踏ませてケガをさせろと、蒲田に指示をした海堂学園のチーフマネージャー・江頭。そんなことはできないと断った蒲田に対し、だったらほかの当落線上の選手に頼むだけとパワハラで脅し、実行させる。

 日大アメリカンフットボール部の選手が、レイトタックルで関西学院大のクォーターバック(QB)の選手を負傷させた問題が、日本中を大騒動に巻き込んだ。これを野球にたとえると「ビーンボールを指示されたピッチャーがバッターに当てることができず、マウンドを下りてバッターの目の前から投げて当ててしまった」といったところか。ビーンボールをぶつけろとは言ったが、まさかマウンドを下りてバッターに近づいて投げるなんて想像もしない。だから日大の監督は「ルール内で、というのが前提」と逃げ、コーチも「つぶせとは言ったがケガさせろとは言ってない」と屁理屈を言う。

しかし、指示をした、していないの水掛け論にもはや生産性はない。問題の本質は、ルールを破ってまで、想像もしない、あり得ないプレーを選手が実行してしまったのはなぜだったのかというところにある。それは蒲田のように、部の中で生き残っていくことができないかもしれないという恐怖感を選手が植えつけられていたからだ。つまりはパワハラである。この欄で体罰を「愛のムチ」と言っていいのは体罰を受けた側だけであって、体罰を与えた側はそれを愛と表現することは許されないとつづったことがあるが、それと同じだ。試合で使う、使わないということをちらつかせるパワハラは、それが自分のためになったと言っていいのは選手だけであって、監督やコーチがそのやり方を選手のためだったという理屈は通らない。

 そういう監督はまだ少なくないのだろう。おそらく監督のありようについては、未だ過渡期なのだ。

 まず、往々にして監督というのは偉い。本人にそのつもりがなくても、偉い人として周りから扱われている。それは日大アメリカンフットボール部の監督だけでなく、野球の世界でもそうだ。プロ野球だけでなく、大学や高校、学童に至るまで、野球の監督は偉い人として扱われ、偉い人のように振る舞っている人が少なくない。

 ただ、たとえばプロ野球の世界では、もはや偉すぎる監督は敬遠される風潮になってきている。ふた昔前には“全権監督”と呼ばれる監督がいた。そういう監督はトレードやドラフト、フロント人事に至るまで影響力を持ち、ユニフォームのデザインからキャンプ地、遠征先のホテルまで、何もかもを決めることができた。それが今は監督の裁量はグラウンドだけ、MLBのようにグラウンド内の戦略、戦術にもデータが持ち込まれ、監督の独断では進められないケースが出てきている。もはや全権監督は時代遅れなのだ。

 学生野球の世界もずいぶん変わってきた。若者の気質も変わり、スパルタ式の指導では選手たちもついてこなくなったからだ。それでも学生野球の監督にはカリスマ然とした監督はまだ存在している。日大のアメリカンフットボール部のように、とても会話なんかできないと選手が恐れおののく監督は、野球の世界にもいる。

 なぜなら、野球に限らず学生スポーツの世界には構造的問題があるからだ。部活動が課外活動であることから学校が積極的にコミットすることを避け、結果、ガバナンスが及ばないケースが出てきてしまう。しかも学校のブランディングにスポーツを利用している手前、それがうまく機能している場合はなおさら、学校が部に口を出しにくくなる。そうなれば部の監督はやりたい放題ということになりかねない。要するに全権監督になってしまうのだ。権力が集中すれば、裸の王様になってしまう。

『MAJOR』の蒲田は交錯プレーで吾郎にケガを負わせた。流れの中でのケガだったので、それがわざとだったのかは当事者にしか分からない。もし日大の選手がボールを持ってプレーしている関学のQBに、ケガをさせようとタックルしていたら、今回の悪意は発覚することはなかった。おそらくは過去、そうやって表に出ていない、ケガを伴ったプレーはいくらでもあるのではないか。

 それが怖い――。

 だからこそ、選手だけでなく指導者にも、一点の曇りもないスポーツマンシップが必要なのだ。今回の出来事を、野球人は他山の石としなければならないと思う。

文=石田雄
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