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プロ野球年代別オールスター

赤バットと青バットが焦土に希望を描いた「1940年代」/年代別オールスター

 

優勝への貢献度、それを凌駕する実績、そしてインパクトを踏まえて、プロ野球の全選手を主に活躍した年代ごとにセレクト。超豪華オールスターをお届けする。

敗戦からの復興とともに



 戦時色が強まり、野球用具も劣悪化。木綿の不足からボールの芯がスフとなったことでボールが飛ばなくなり、ノーヒットノーランが相次いだのが1940年だ。秋には敵性言語として英語の使用禁止が決まり、タイガースが阪神になるなど、チーム名も改められた。

「敢闘精神にもとる」などとして引き分けも廃止に。そして41年オフ、日米開戦。暗黒の時代へと沈み込んでいく世相に、貴重な娯楽だったプロ野球も巻き込まれていく。多くの選手が応召し、戦火に散っていった。プロ野球は45年には休止に追い込まれたが、終戦を迎えると、ただちに復興を目指した。

 終戦から3カ月。神宮球場で東西対抗戦が行われ、新加盟のセネタースに入団した大下弘が、まだ誰も見たことのないような軌跡のアーチを架ける。46年にペナントレースが再開されると、川上哲治ら応召していた選手も次々に復帰。川上はバットを粗悪なペンキで赤く塗り、川上にあこがれる大下はバットを青く染めて、競い合うようにホームランを放つ。ボールに塗料がつくため1年で禁止になっているが、彼らのトレードマークとして語り継がれているのは、それだけ時代を象徴した存在だったということだろう。

【1940年代オールスター】
先発 スタルヒン(巨人ほか)

中継ぎ 近藤貞雄中日ほか)

抑え 野口二郎(阪急ほか)

捕手 土井垣武(阪神)

一塁手 川上哲治(巨人)

二塁手 千葉茂(巨人)

三塁手 鶴岡一人(南海)

遊撃手 杉浦清(中日)

外野手 呉昌征(阪神ほか)
    金田正泰(阪神)
    岩本義行(南海ほか)

指名打者 大下弘(東急)

 40年代は40年と47年から49年の3度、ベストナインの表彰があった。“打撃の神様”と呼ばれた川上が「ボールが止まって見えた」のは50年のことというが、40年代の一塁手部門を独占している。打撃では神様でも、二塁の千葉茂に言わせれば守備は「員数外」。指名打者に回し、好打者が多い外野陣から一塁手を引っ張りたいところだが、いずれも数試合の経験しかない。

 ここは川上を一塁に残し、その指名打者には大下を置いた。ちなみに、48年に本塁打王となった川上だったが、その後はホームラン・ブームから離脱、圧巻の打球スピードで“弾丸ライナー”と評された若手時代の打撃スタイルに戻している。

 千葉は独特の一本足打法からの右打ちと堅実な二塁守備で“猛牛”と呼ばれた職人。実際と同様に、守備での川上のフォローも期待される。三塁には復員後、監督と三塁手を兼ねて2度のMVPに輝いた鶴岡(山本)一人。遊撃には戦後の中日に入団して1年目の途中から監督も兼任し、主力が多く離脱してからもチームを支え続けた杉浦清を据えた。

 外野には“人間機関車”呉昌征(呉波)、天才的なバットコントロールを誇った金田正泰と、阪神“ダイナマイト打線”の一、二番打者が並んだ。岩本義行は“神主打法”で規格外のパワーを誇った長距離砲。呉は戦後初のノーヒットノーランも達成しており、投手としても計算できる。外野手では40年に川上を制して首位打者に輝いた鬼頭数雄(ライオンほか)、44年にチームの勝率よりも高い打率.369で首位打者となった岡村俊昭(南海)、“塀際の魔術師”平山菊二(巨人)もいる。

 40年代のベストナインでは、捕手部門は阪神勢がリレーしている。ここでは “ダイナマイト打線”の一角を担い、強肩強打に頭脳的なインサイドワークも冴えた土井垣武を司令塔に据えた。戦争で中断するまで阪神の正捕手だったのが“カイザー”田中義雄だ。

“未完”の名選手たち


巨人・スタルヒン


 先発投手にはスタルヒンを選んだ。カタカナが一掃された際に「須田博」を名乗らされ、プロ野球が中断してからは軽井沢に軟禁。戦後は巨人時代の監督だった藤本定義と行動をともにした。プロ野球で初めて通算300勝に到達した剛腕で、プロ野球記録の42勝を挙げたのは39年だが、通算勝利の最多は40年代。そして何より、その存在は40年代にあって象徴的だ。

 50年にプロ野球で初めて完全試合を達成した藤本英雄(巨人ほか)も40年代はフル回転。監督も兼ねた44年には規定投球回だけでなく規定打数にも到達した。48年に最多勝、最優秀防御率の投手2冠となった左腕の中尾碩志(輝三。巨人)、その48年にノーヒットノーランを達成した梶岡忠義(阪神)と真田重蔵(重男。大陽)、別所昭とともに南海投手陣を支えた中谷信夫柚木進もいる。

 後年、中日コーチとして投手分業制を構築したイメージで近藤貞雄を中継ぎに置いたが、もちろん便宜上。分業制どころか、特に戦時中は野手すらマウンドに上がったのが40年代だ。元祖“鉄腕”野口二郎が抑えのマウンドに登板したら、長兄の野口明(中日ほか)とのバッテリーで試合を締めくくるのもオールスターらしい。

 ほかの年代と比べて、選手層の薄さは著しい。その一方で、在籍した期間が短いことでラインアップから漏れた“未完”の名選手が多い年代でもある。それでも球史に名を残しているのは、その短い時間での活躍が、あまりにも鮮烈だったからだ。

 戦火に消えた三輪八郎(阪神)や村松幸雄(名古屋)、特攻隊で散った石丸進一(名古屋)、戦後は肺病に屈した神田武夫(南海)らの投手陣に、47年シーズン中に急死して背番号4がプロ野球で最初の永久欠番となった外野手の黒沢俊夫(巨人ほか)。むろん、彼らの“通算成績”は未知数で、ラインアップに並んだ選手たちと同列に語るのは難しい。それでも、せめてこの“夢の球宴”では、彼らがグラウンドで躍動する姿も思い描いてみたいものだ。

写真=BBM
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