プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月14日だ。
ヤクルトのホーナーを筆頭に新外国人がデビュー戦から鮮烈な印象を残すことは少なくないが、このときインパクトは、その中でも屈指と言えるだろう。
台湾出身、アジアの大砲・
呂明賜(ルー・ミンスー)が、
巨人上空に停滞していた梅雨空を吹き飛ばした日だ。
1988年6月14日の神宮球場。試合後の巨人のロッカールームは異様な興奮で包まれた。
「すごいね。驚いた。こんなうれしい日は久しぶりだ」
王貞治監督が笑顔いっぱいでまくし立てる。
5対0の快勝。ただ、それは勝利の喜びからだけではない。
時計の針を戻し、試合前、王監督の表情は暗かった。
それも仕方あるまい。なにしろ頼れる主砲
クロマティが死球を受け、左手親指を骨折。全治2カ月の診断で首位
広島追い上げに燃えるチームに、完全に水を差してしまったのだ。
この日のヤクルト戦。初回一死一、三塁で打席に入ったのが、背番号97の呂だった。外国人枠の関係で一軍に上がれなかったが(当時は2人でクロマティと
ガリクソンがいた)、イースタンでは三冠王と打ちまくっていた。クロマティの代役で昇格し、晴れて一軍初打席だ。
ヤクルトのギブソンが投げた2球目だった。独特の大きなフォロースルーで呂のバットが振り抜かれると、打球はピンポン球のように飛び、左翼席上段に飛び込んだ。
「甘い球が来たから打ったまで」
さらりと言った呂だが、そのすさまじい打球は満員の観衆だけでなく、敵味方ナインの度肝を抜いた。
「やっぱりお客さんが入ったところでプレーがしたかった。入れば入るほど燃えるんです」
呂旋風は、この日だけではなかった。18日に1試合2本、19日に1本。「毎打席ホームランを狙う」の言葉どおり、5試合に4本塁打の量産ペースだ。
王監督も「球を打ち崩す感じで打っているのは呂だけじゃないかな。とにかくあのパワーはすごい」とベタボメした。
だが、日本投手に研究され、徐々に失速。最終的には打率.255、16本塁打、40打点に終わった。
写真=BBM