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ホークス80年

杉浦忠、日本シリーズ史上唯一の4連投4連勝で初の日本一/ホークス80年「栄光の歴史01」

 

1938年3月1日、南海野球株式会社が設立されてから80年が経過した。47年にチーム名が南海ホークスとなり大阪で黄金時代を築いたチームは現在、九州・福岡の地でダイエーを経て、ソフトバンクホークスとして栄華を誇っている。プロ野球史に燦然と輝くホークス。その栄光の歴史を週刊ベースボールONLINEで振り返っていこう。

覇権奪回へ闘志を燃やした1959年


南海・杉浦忠(左)、野村克也


 4月10日の「皇太子ご成婚」で、全国でお祝いムード一色になった1959年。この年、南海ホークスは覇権奪回に並々ならぬ闘志を燃やしていた。南海は2リーグ分立した50年から6年間で4度のパ・リーグ制覇を果たし盟主として君臨していた。しかし、野武士野球と言われた西鉄ライオンズの台頭で56〜58年は後塵を拝していたからだ。前年、チームの柱となる杉浦忠を立大から獲得。杉浦は1年目、27勝12敗、防御率2.05と好成績を残し新人王に輝いていた。

 2年目の杉浦はさらに進化した。7月5日まで13勝3敗の成績を残すと、7月12日から12連勝、8月22日に夕張での大毎オリオンズ戦に敗れるが、8月26日から閉幕まで13連勝。7月12日から25勝1敗、シーズンでは38勝4敗、防御率1.40という驚異的な成績を挙げ、夏場まで優勝を争った大毎を終盤で完全に振り切り、4年ぶりのVを達成した。しかし、南海にはもう一つの悲願があった――それは初の日本一。

 日本シリーズの相手はセ・リーグ5連覇の盟主・巨人。それまで51〜53、55年と日本シリーズに出場したものの、ことごとく敗れていた相手だ。1リーグ時代の48年オフ、南海のエースだった別所昭(のちの毅彦)を巨人が引き抜き移籍。その別所に日本シリーズでは2勝7敗と苦渋をなめされられた。そんな因縁のある相手だけに「打倒・巨人」は南海にとっての悲願でもあった。

 絶対的エース・杉浦を擁し、穴吹義雄、野村克也、長谷川繁雄杉山光平寺田陽介といった打撃陣は「400フィート打線」と言われた強打のチーム。チームカラーはそれまで3度の日本シリーズとはガラリと変わっていた。また杉浦と立大時代の球友だった、長嶋茂雄との対決も話題となった。

 第1戦の舞台は大阪。南海の先発は杉浦で1回表、いきなり死球を与え長嶋に左前打を打たれピンチを招くが無失点で切り抜けた。その裏、南海打線は先発の義原武敏に襲いかかり打者6人でKO。二番手で別所が登板したが打ち崩し5点を挙げた。杉浦は8回3失点でお役御免。南海が10対7で先勝した。第2戦は巨人が1回表に2点を挙げ先制。南海は4回裏に長谷川、寺田のタイムリーで4点を獲り逆転。すると5回表から杉浦がマウンドに上がった。5回を1失点に抑え6対3で快勝。

巨人相手に血染めのピッチング


4連投4連勝で日本シリーズMVPに輝いた杉浦


 舞台を後楽園に移した第3戦。南海の先発は中1日の杉浦。巨人は1回裏、長嶋の内野安打で先制するが、2回表、南海は野村の2ランで逆転。その後、硬直状態が続いたが、9回裏、巨人は坂崎一彦の一発が出て同点。なおも一死二、三塁でサヨナラのチャンス。ここで代打・森昌彦が遊撃後方にフライを打ち上げるが、中堅・大沢昌芳の絶妙のポジショニングでキャッチし、三走・広岡達朗のタッチアップもホームで刺し延長戦へ。延長10回表、寺田のタイムリー二塁打で南海が勝ち越すと、杉浦はその裏も抑え3連勝。杉浦は142球の完投だった。

 雨で1日延びた第4戦、南海は杉浦が連投。3回表に杉山の二塁打で先制すると、7回表には犠飛などで2点を挙げ3対0。杉浦は打たせて取るピッチングで巨人打線を翻弄。3回裏、捕手・野村が返球するボールを見ると赤黒い血がついていたという。マメがつぶれ出血した跡だった。野村が杉浦に問いただすと、「みんなには黙っていてくれ」と言ったがナインは気づいていた。結局、杉浦は巨人打線を散発5安打に抑え、106球で見事に完封。日本シリーズ史上唯一の4連投4勝で悲願の日本一を達成。試合後、杉浦は報道陣に対し「1人で静かに泣かせてほしい」と語った。

 その後、大阪の御堂筋で優勝パレードが行われ20万人のファンを集め、日本一を祝した。

<毎週金曜公開予定>

写真=BBM
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