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平成助っ人賛歌

球史に残る神宮乱闘劇の主役を演じた“暴れ馬”グラッデン/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

V奪回が至上命題の長嶋巨人へ


わずか1年の在籍ながら強烈なインパクトを残したグラッデン


 一瞬の輝きを放ち、消えていった男たち。

 先日、祭りのあとの生き様を描いた『一発屋芸人列伝』(山田ルイ53世著/新潮社)を読みながら、「プロ野球界にも一発屋はいるよな」と思った。短期間しか日本球界にいなかったのに、やたらとファンの印象に残っている助っ人選手たち。例えば、巨人在籍は1994年のたった1シーズン、しかもわずか98試合の出場。それでも、我々に強烈な印象を残した背番号32、ダン・グラッデンのような男である。

 トレードマークはプロレスラーのハルク・ホーガンみたいな金髪長髪(ちょいハゲ気味)。ここでメジャー・リーグのツインズ時代に2度の世界一に輝いたグラッデンを一発屋扱いするなと怒るオールドファンの方もいるかもしれない。『週刊ベースボール』1991年12/28増刊号'91大リーグ総集編では、当時34歳の斬り込み隊長グラッデンがワールド・シリーズ第1戦で三塁からタッチアップして、相手捕手を後ろに1回転させるほどの強烈なスライディングを見舞い、チームを鼓舞したという記事が掲載されている。

 カリフォルニア州フレスノ州立大学時代はドラフト指名から漏れ、入団テストにも不合格。最終的に友人が地元チームのシングルA、フレスノ・ジャイアンツのGMを紹介してくれ、再度テストに挑みなんとかプロの世界の潜り込んだハングリーな苦労人だ。83年にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たすと、翌84年には31盗塁を記録。87年にトレード先のミネソタ・ツインズでも、闘志あふれるプレーと勝負強い打撃を武器に「一番・レフト」でワールド・シリーズ制覇に貢献してみせた。

 92年からはデトロイト・タイガースへ移籍し、盗塁数こそ減ったが93年には13本塁打を放っている。そして94年、すでに30代後半に差し掛かり現役バリバリとまではいかないが、年俸1億6000万円の元大リーガーは球団創立60周年メモリアルイヤーでV奪回が至上命題の長嶋巨人へ入団したわけだ。

 1994年と言えば、ゲーム業界では“次世代ゲーム機”と呼ばれたプレイステーションやセガサターンが発売され、記念すべきシリーズ第一作目『実況パワフルプロ野球’94』も世に出た。『ファミスタ』から『パワプロ』の新時代へ。野球界でも20歳のイチローオリックス)がシーズン210安打の新記録を樹立し、三番に定着した高卒2年目の松井秀喜(巨人)が20本塁打をかっ飛ばした。今思えば、この平成6年前後の世の中は、まだ60年以上続いた昭和と始まったばかりの平成の空気が微妙に混在していた気がする。だって、なんだかんだプロ野球の主役は“10.8決戦”を「国民的行事」にまで押し上げた長嶋茂雄だったのだから。

キャンプイン直前インタビューで“前ふり”


グラッデンが入団した94年は球団創立60周年のメモリアルイヤーでもあった


 ちなみに来日したグラッデンは、まだニキビ顔のゴジラ松井に対して「アイツはこれからの日本の野球をリードする役目があるんだよ。だから、今の内からオレのすべてを伝え残したい」とその才能に惚れ込み、片言の日本語と英語で走塁や打撃のコツを伝授しようとしたという。ところで、なぜ彼はわざわざ日本に来たのか? グラッデンはその理由をキャンプイン直後に週刊ベースボールの貴重なロングインタビューで答えている。

「野球に関してアメリカでやるべきことはすべてやった。そういう時期に日本のトップチームであるジャイアンツへ誘われたんだ。すべてをなしとげたという充実感と、新しいチャレンジへの気持ちが、日本でのプレーを決意することにつながった」

 意外と模範的な優等生の受け答えをすると思ったら、自分の前に巨人に在籍していた外国人選手については「バーフィールドもモスビーも日本でプレーする前の2年間はアメリカでも全然いい選手じゃなかったんだぜ。オレは彼らと違うよ」なんてニヤリ。何より本インタビューの目玉はこの直後のやり取りだろう。前年日本一になったヤクルトとは因縁があり、巨人は乱闘になった試合には負けてしまうことがよくあった。あなたは闘志の火付け役としても期待されているが? と聞かされたグラッデンは笑いながらこう答えたのである。

「野球でハッスルすることを期待されてるのか、それともケンカでハッスルすることを期待されているのか、どっちなんだい(笑)」

 ハイ、ケンカですじゃなくて……なんとあの球史に残る大乱闘劇の数カ月前には、こんな「兄貴マジやっちゃってください」的な前ふりがあったのである。

“球史”を変えた“乱闘劇”


捕手の中西親志に強烈な左アッパーを食らわせたグラッデン


 94年5月11日、神宮球場でのヤクルト戦。2回表にはヤクルト先発・西村龍次が巨人の村田真一に頭部直撃の死球を与え担架で運び出されるアクシデント。すると今度は3回裏に巨人・木田優夫が西村の尻にぶつけ返す。騒然とする球場。迎えた7回表、再び西村が右打席に入ったグラッデンの顔面付近にブラッシュボールを投げてしまう。

 ヘルメットを吹っ飛ばし避ける背番号32。ここでカリフォルニアの暴れ馬の闘志に火が付いた。西村を威嚇して、止めに入った捕手・中西親志にジャブからの左アッパーを食らわせ両軍揉みくちゃの殴り合いに。結局、グラッデン、西村、中西と当事者は全員退場処分。しかも36歳の助っ人は出場停止処分12日間と同時に両手の指を骨折して長期戦線離脱というあまりに大きな代償を払った。後日、セ・リーグアグリーメントが現代まで続く「頭部顔面死球があれば、投手は即退場」と改められたわけだが、いわば燃える男グラッデンは球史を変えたのである。

 当時の週刊ベースボールの最終ページには、畑田国男氏が絵と文を書く『噂の2人』という人気コーナーがあったのだが、乱闘時のグラッデンと西村龍次、さらに9月には同僚ヘンリー・コトーとのコンビでも登場。優勝争いをしていた広島戦で滅法強かったのが通称CG砲だった。

 まさに記録より、記憶に残った助っ人グラッデン。94年の成績は打率.267、15本塁打、37打点、2盗塁、OPS.758と恐ろしく平凡な数字だったが、インパクトでは同年にFA加入した落合博満と肩を並べる存在感を放ったと言っても過言ではないだろう。なんだかんだ世界一体験に続き、この年にしっかり長嶋監督初の日本一にも貢献したのだからたいしたものだ。

 ペナント終了後は『週刊現代』で“赤鬼”独占激白が掲載され、「日本は練習が長すぎ」「車の運転もさせてくれないやりすぎの巨人選手管理」「来季はジャイアンツでプレーできなかったら、中日でやってるかもしれないし、千葉ロッテでやるかもしれない」と言いたい放題ぶちまけて1年限りで退団、そのまま現役引退した。まさに球界一発屋列伝にふさわしい生き様である。

 ちなみに“暴れ馬”の異名は伊達ではなく、メジャー時代もチームメートと取っ組み合いの喧嘩をして指を骨折している。もう無茶苦茶だ。まさに生粋のブルファイター。恐らく、日米で派手に殴り合い指を骨折したプロ野球選手はダン・グラッデン、ただひとりだと思う。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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