今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 後藤修が7球団目の西鉄へ
今回は『1963年2月11日号』。定価は40円だ。
のち日本人メジャー第1号となる南海の新人左腕(前年秋入団)・
村上雅則の評判がいい。
ピッチングではなく、身体能力だが。
合同自主トレで選手全員に握力テストをしたのだが(当時の合同自主トレは、ほぼキャンプと変わらない)、右が69キロ、左が76キロだった。76キロは
スタンカの右75キロをしのぎ、チーム最高だったらしい。
握力の強さはピッチングとイ
コールではないが、何事も一番はいいものだ。
続いて背筋力を測ったら1位が
野村克也で209キロ。村上も196と、こちらでも上位グループに入った。
ここではマッシー村上より、さすがノムさんと書いておきたい。当時はウエート・トレなどまったくしていなかった時代のはずだが、身体能力というか、体幹が強いタイプだったのだろう。
西鉄には
後藤修が入団。
若林忠志コーチが「今までは指導法の誤りで本当の力を発揮できなかった。僕は先発で起用したい」と惚れ込んだ左腕だが、後藤の近鉄時代の監督であり、解説者だった
千葉茂は「球は速いし、カーブもいい。ただコントロールに不安があって、ここ一球というときに失敗する。どこまで心配していいか不安があった」と語っている。
52年松竹入り。松竹が大洋と合併した洋松を経て、東映、大映、
巨人、近鉄、南海と渡り歩き、西鉄にたどりついたジャーニーマンだ。
しかも結果を残し、請われての移籍というより、結果を出せず、戦力外でテストを受けての繰り返し。この号の記事では、11年間で7球団とあって「球界の七不思議」の1つが後藤の運命と書いている(松竹と洋松は1つに数えているようだ)。
なお、後藤にはピッタリの異名があるのだが、「あまり適切ではない」と言われてきたので、あえて書かない(みんな知っていると思うし)。
巻頭企画は巨人・
長嶋茂雄の結婚問題。『長嶋夫人最後に残った2人の女性』のタイトルもほぼ女性誌だ。記事中では「いままで十数回にわたって紙上で婚約させられてきた長嶋だが、今度ばかりは……」とあるが、今度の2人も、また違っている。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM