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広岡達朗コラム

監督就任のオファーを待っているだけではいけない/広岡達朗コラム

 

ヤクルトを球団創設初の栄光に導いた監督時代の筆者


 人間の能力は教育によって開発される――これは私の信念だ。

 人は正しいことを正しいと信じてやれば、自然とものになる。もちろん、早いか遅いかの違いはある。しかし、答えが出るまで根気強く続けることが大切なのだ。

 球界の監督、コーチも間違ったことは言わない。ただ、そこで大切なのは、どう選手に実践させるかだ。

 原点に帰れ。リラックスしろ。やる気を出せ。昔の選手には、そういう抽象的な表現を使っていればよかった。しかし、今の選手は「どうやったらいいのですか」と聞いてくる。そのとき答えに窮してしまう指導者が少なくないのではないか。

 そこで、当連載では、ヤクルト、西武の監督生活を通じて、やるべきことをやれと言い続けてきた私の信念を紹介するとともに、こうすれば球界はもっとよくなるという気づきを与えていければと思う。私の性格上、多少辛らつな物言いになるかもしれないが、批判ではない。耳を傾けてもらえれば幸いだ。

 ヤクルトの監督に就任した1976年シーズン途中、門限の徹底など選手の私生活について口うるさく管理した。縁あって私の下に来た選手たちのコンディションを高め、彼らを立派にするためだ。

 古株のコーチがすぐに「今は時代が違います」と選手たちの不平・不満を伝えにきた。そのとき私は「俺のやり方で勝てると信じて球団は俺を監督にしたんじゃないか。言うことを聞け」とはねつけた。最初の半年は確かに抵抗された。しかし、実際にチームが勝ってくると、選手というのは聞く耳を持つようになるのだ。

 チームづくりには3年が必要だ。

 1年目の76年には投手の先発ローテーション制を導入した。松岡弘安田猛浅野啓司鈴木康二朗会田照夫の5人に決めた。時には苦手なチームに当たることもあるが、何があっても5回までは代えない。辛抱した。そうすると、「監督は俺をそんなに信用してくれているのか」という思いに変わってくるのだ。

 2年目は打撃を強化し、迎えた3年目。松園尚巳オーナーに「残念ながらヤクルトは巨人にコンプレックスを持っています。プライドがなさすぎます」と訴えた。その上で、「アメリカでメジャーのキャンプと一緒にやることで、俺たちは違うという誇りを植え付けましょう」と提案。するとオーナーはブラジルでのキャンプを持ちかけてきた。現地でヤクルトの乳製品を作っていたようだが、本社の研修旅行気分では意味がない。

「それでは断ります」

「じゃあアンタの言うとおりにして、勝てなかったらどうする」

「責任を取って辞めます」

「よし分かった」

 それでユマキャンプが決まって、78年には球団初の優勝、日本一にもなった。3年の過程が花を咲かせた。

 現在の評論家にもよく言うことだが、監督就任のオファーを待っているだけではいけない。「監督として3年間、預けてくれたら勝ちます」と売り込めば、どこかで縁があるかもしれない。だが、そこで5、6年と言ってはダメだ。3年で結果を出すところに値打ちがある。腹をくくって野球を勉強することが大切なのだ。

広岡達朗(ひろおか・たつろう)
1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退任。92年野球殿堂入り。
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