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平成助っ人賛歌

巨人・ガルベス 真夏の伝統の一戦での“大乱闘”はなぜ起こったのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

審判に対して前代未聞の暴挙


96年、来日時のガルベス


 20年ぶり2度目の優勝だ。

 サッカーロシアW杯はフランス代表が1998年大会以来の優勝に輝き、幕を閉じた。ジネディーヌ・ジダンが世界的スーパースターとなった20年前、日本ではテレビドラマ黄金時代でフジテレビ系列の反町隆史主演ドラマ『GTO』や江角マキコ主演の『ショムニ』が高視聴率を記録し、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』が大ヒットを飛ばした。そして、「事件は会議室で起きているんじゃない。球場で起きているんだ」と今も語り継がれるプロ野球界の“あの騒動”も20年前の1998年夏の出来事である。

 平成10年7月31日、甲子園の阪神vs巨人戦で事件は起こった。0対5と阪神リードで迎えた6回裏、マウンド上の巨人先発バルビーノ・ガルベスは先頭打者のルーキー坪井智哉を2ストライクに追い込むが、決めにいった内角の際どい球を橘高球審はボール判定。これで完全に不貞腐れ、直後の5球目の打ちごろのチェンジアップを坪井は右中間席へ本塁打を叩き込み、背番号59をKOした。交代を告げられた後も、ガルベスは審判に対してスペイン語で悪態をつきヒートアップ。清原和博元木大介といったチームメートや長嶋茂雄監督がなだめ一旦は落ち着いたように見えたが、なんと自軍ベンチ前で振り返ると、手にしていたボールをお馴染みのベロ出し投法でグラウンドの橘高球審に向けて投げつけたのである。

 幸い直撃こそしなかったものの誰もが目を疑う暴挙。傍らにいた同僚助っ人マリアーノ・ダンカン(たけし軍団の熱狂的阪神ファンのダンカンとは別人)の「おまえマジなにやってんの!?」的な驚愕の表情が印象的だが、もちろんカリブの剛腕は即刻退場処分。しかし、180センチ、107キロgの巨体でブチギレた暴走特急を誰も止められない。一人乱闘騒動のような有様の中、止めに入った捕手の吉原孝介はガルベスのエルボーを食らい流血。この前代未聞の大暴れに翌8月1日、セ・リーグからはシーズンいっぱいの出場停止処分が言い渡され、球団からは無期限出場停止と罰金4000万円とも言われる重い処分が下される。

審判にボールを投げつけたガルベス(右)。ダンカンの唖然とした表情も印象的だ


 というのが98年夏に起こった“ガルベス事件”になるわけだが、当時の週刊ベースボールを時系列順に読み返してみると、ここに至るまでにいくつもの伏線があったことに驚かされる。まず、この試合では初回の阪神先頭打者・坪井の打球を巨人二塁手の仁志敏久がエラー。いきなり失点につながり、さらに3回裏に大豊泰昭に一発を浴びてからはバッテリーを組む村田真一のサインに首を振りまくり直球主体の攻めへ。しかし、5回には再び自慢のストレートを大豊にとらえられ140メートルの特大弾を浴びる。この時点で、5点ビハインドでイラつきは止まらない。通常なら交代してもいいケースだが、中継ぎ陣が不安定なチーム事情もあり、長嶋監督はガルベス続投を決断して6回裏のマウンドへ送り出す。「なんだよ、まだ投げるのか」とファンだけでなく、恐らくガルベス本人も思ったかもしれない。仮にこのとき、5回で下げていたらあの騒動は起きていなかったことになる。

 実は98年のガルベスは春先からトラブルメーカーで、4月16日の中日戦で李鍾範のヘルメットに直撃する死球を与え、両軍ベンチから総出の騒動に。中4日で登板した4月21日の広島戦でも野村謙二郎の左足へ当て、両軍揉み合いの乱闘騒ぎを引き起こしていた。5月12日の横浜戦では完投勝利を挙げるも審判の判定に腹を立て、勝利の握手やお立ち台を拒否。つまり、当時のセ各球団や審判団の間では「ガルベスは危ない奴」という共通認識があったわけだ。今季のゲレーロ高橋由伸監督との面談拒否なんてかわいく思えてくるレベルである。週刊ベースボールの名物コーナー『熱闘EXPRESS'98』では、乱闘の最前線で身体を張って揉みくちゃになりながら背番号59を止めている長嶋監督の姿が確認できる。今となっては、なぜ国民的スーパースターがそこまで……と思うが、もともとこのガルベスはミスター直々に獲得を決めた投手だったのである。

ミスターの一目惚れで巨人へ”


96年4月、遠征先の広島で中華料理に舌鼓を打つガルベス


 96年2月12日、もうすぐ32歳になるドミニカ共和国出身の巨漢右腕が巨人のトライアウトを受けるために宮崎キャンプに合流した。前年は台湾球界で投げていた無名の投手だが、4日後に初めてブルペン投球を披露すると見守っていた首脳陣や評論家は息を呑む。150キロ近い速球に、高速シンカーとチェンジアップ、そして内角を鋭くえぐる重いシュート。すごい、こいつは何者だ? 興奮した長嶋監督は「あれスゲェ! スゲェ奴ですよ! もうウチは絶対に必要ですからね!」と獲得を即決。いわゆるひとつのミスターの一目惚れだった。

 来日初年度は週刊ベースボールのインタビューで「日本のプロ野球は自分にとってのメジャーリーグ・ベースボールさ」なんて謙虚に答え、台湾時代より数倍上がった年俸で天ぷらや寿司のシーフードグルメを味わい、秋葉原で電化製品の買い物を楽しむ一面も。お化けフォークを操る抑え投手マリオ・ブリトーとのドミニカンコンビは、二人合わせてわずか年俸3500万円と話題になった。ガルベスは先発だけでなく時にブルペン待機しながら16勝を挙げ、同僚の斎藤雅樹とセ・リーグ最多勝を分け合い、ついでに中日の山崎武司と派手に殴り合い、チームの逆転V“メークドラマ”に貢献。翌97年も12勝で槙原寛己と並びチーム最多勝。あの栄光の三本柱と並び称される替えの利かない貴重な戦力だった。だから、長嶋監督は98年夏に一連のガルベス騒動の責任を取り、大学生以来という丸刈りにまでなったのである。

96年5月1日の中日戦では山崎武司と派手な乱闘騒ぎも


 ちなみに同カードの阪神3連戦は8月2日にも両チームの死球合戦があり警告試合に。3日に巨人・阪神連名のファンへの謝罪文が出され社会的な注目を集めた。ここでガルベスの日本のキャリアは終わったイメージを持っているファンも多いかもしれないが、長嶋監督の強い意向もあり残留すると、翌99年の開幕投手に抜擢され見事9回1失点で完投勝利を挙げている。さすがベンチ裏で208センチ左腕のエリック・ヒルマンと取っ組み合いの喧嘩をした男である。恐るべきメンタルの強さだ。しかし、2000年には開幕6連敗で二軍落ち。その処遇に不満を持ち退団をほのめかし、当時の週刊宝石には『巨人vsガルベス“ぶちぎれ銭闘”70日の全真相!』という特集記事まで掲載されている。

 NPB通算成績106試合登板、46勝43敗、防御率3.31。 特筆すべきは105試合の先発登板中、34の完投数を記録したタフネスさだろう。パワフルな打撃も有名で一発を97年に3本、99年に4本放つなど通算10本塁打をマーク。90年代を前半からチームを支えた三本柱と、99年の上原浩治の入団までの“谷間のエース”を担ってみせた。

 数々の乱闘騒動を巻き起こした誰よりもキレやすいガルベスだが、巨人助っ人ではあのクロマティ以来となる日本酪農乳業協会のCMに出演すると、「カルシウムブソク、シテイマセンカ?」という台詞で話題を呼んだのも今なっては笑い話である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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