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週刊ベースボール60周年記念企画

池永正明は父ちゃんと言ったか、父さんと言ったか/週べ1963年4月22日号

 

 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。

後楽園球場が自前のチームを持つ?


表紙は巨人長嶋茂雄



 今回は『1963年4月22日号』。定価は40円だ。

 150試合制もあってパ・リーグが先の開幕となったが、これによりプロ野球のメッカたる後楽園球場はセの本拠地ゆえ、いわゆる「プロ野球開幕戦」を逃すことになった。

 その中で、創設期のイーグルス以降、貸し球場だった後楽園が自前で球団を持つというウワサも出ていた。これはドル箱となっていたTV放映権料がすべて球団に入り、いっさい球場に入っていなかったこともあるらしい。
 
 後楽園、東京ドームといえば巨人の印象が強いのだが、基本的に後楽園と巨人と同じ企業ではない。記事を読んでいくと、当時は今以上に関係が薄かったようだ。

 もともと後楽園の創設者は阪急のオーナー、小林一三の実弟でもあり、このとき阪急が東京に進出し、「後楽園ブレーブス」になる可能性もあったと書いてあるが、かなりガセっぽい。
 
 この年のセンバツ甲子園の記事もあった。優勝は2年生エース、16歳の池永正明擁する下関商高だ。決勝では10対0と北海高を一方的に破った。
 
 このとき客席に父親とマイクでつながっていた池永のインタビューは伝説となっている。
「父ちゃん、泣かんでもいいやないね。やったばい」
 と言ったらしい。以下抜粋でお届けする。

──優勝したわけですが、どんな気持ちで。
「別にどっちゅうことはなかったです。優勝と言われてもピンとこないです」
──そうとう疲れも残っていたんじゃないですか。
「苦しくもなかったし、疲れなんか、1日たてばなくなりますよ、きょうなんか一番楽なゲームでした」

 このときスタンドのインタビューで「もうこれで死んでもいい」とまで言って感涙にむせぶ父親とつながった際の言葉が前述の「父ちゃん…」であり、この記事では、
「父さん聞こえる。ウン、ウン、元気出せよ」
 だった。何だかこちらのほうが正しくも思える。正直、どちらが正確かよく分からなくなった。




 ではまたあした。

<次回に続く>

写真=BBM

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