長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 「前へ前へ」と突き進む闘志あふれるプレースタイル
広島が最下位に終わった1974年の49盗塁はリーグワースト2位だった。73年は59盗塁でリーグ4位、72年は73盗塁で同3位だったから、決して走れるチームではなかった。それが初優勝の75年には一気に124盗塁と前年から2.5倍増。2位に46個の大差をつけて、最も走れるチームになった。その火付け役となった男が大下剛史だ。
広島商高−駒大を経て67年ドラフト2位で東映(日拓、
日本ハム)に入団。1年目からレギュラーとなり、ベストナインを獲得。4年目の70年には打率3割をマークする。生来の負けん気の強さを前面に、闘志あふれるプレースタイル。一投一打に全力を尽くし、「前へ前へ」とひたすら突き進む。最下位定着が当たり前となり、「負け犬根性」が染みついた広島に最も必要とされるメンタルの持ち主に白羽の矢が立ったのが75年だった。
重松良典球団代表が懇意にする日本ハム・
三原脩球団代表との間で進めた
上垣内誠、
渋谷通を放出しての1対2の交換トレードで生まれ故郷のチームに帰ってきた。
大下は主に一番打者を打ち、44盗塁で盗塁王を獲得。「俺が入ったことで山本(浩二)や衣笠(祥雄)も走る野球の面白さが分かったはず」。
この年、山本がチーム2位の24盗塁。首位打者にも輝くが、それは「相手バッテリーが大下さんに神経を使い過ぎるおかげで、僕らはピッチャーが投げ損じた球をずいぶん、打たせてもらった」と山本。そして、衣笠は翌76年に盗塁王を獲得。主軸2人が走る意欲を見せれば、自然とほかの選手もそれに追随する。
「広島機動力野球」の起源は大下の活躍にあった。
写真=BBM