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甲子園ヒーロー列伝

浪商高・尾崎行雄、怪童と呼ばれた快速球右腕(甲子園ヒーロー列伝/08)

 

童顔ながらさすが浪商。かなりの強心臓だった


 100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。

 かつて高松一(香川)の強打者・中西太(のち西鉄)につけられた「怪童」の異名を受け継いだ二代目だ。

 スリークオーターのフォームから投げ込む荒々しい剛速球は、甲子園史上最速とも言われる。

 強心臓右腕のピッチングの理想は、高校時代から「まず全員三振の完全試合、それがダメならふつうの完全試合、その次がノーヒットノーラン、完封、完投」という。
 2年生の春、夏の甲子園を見た人なら、その言葉が決して大げさではないことが分かるはずだ。

 1960年、浪商(大阪)入学。新入部員が約300人、うち190人ほどが投手希望だったという。頭角を現したのは早く、4月には岡山の招待試合に選ばれ、その後、5月にはエースの座を手にしている。1年夏から甲子園にも出場したが、2回戦で柴田勲(のち巨人)がエースだった法政二(神奈川)に0対4で完敗した。

 続く61年センバツも連続出場。そこからが「怪童伝説」の本格スタートでもあった。

 1回戦の日大二(東京)戦に17奪三振、2回戦の明星(大阪)戦では14奪三振で2試合連続完封。勢いに乗って挑んだ準々決勝の法政二戦は、事実上の決勝とも言われた。

「ほぼ完ぺきな状態だった」という尾崎は4回までノーヒットで7奪三振も、法政二打線の徹底した右打ち、さらにエラーもあって逆転負け。自責点は1ながらスコアは1対3だった。
 法政二はそのまま夏春連覇。尾崎はこの大会で27イニングを投げ、42奪三振、防御率0.33だった。

 夏には大阪大会4試合すべてを完封で、ふたたび甲子園の土を踏む。
 ただ、尾崎の中では甲子園出場は当然。その先の「打倒法政二」しか頭になかった。

 3度目の対決は準決勝だ。0対2とリードを許し、9回二死まで追い込まれたが、土壇場で尾崎の一打で同点に追いつき、延長戦にもちこむと11回表2点を挙げ、ついに雪辱を果たす。
 翌日の決勝・桐蔭(和歌山)戦も13奪三振の完封で頂点に立った。

 その後、中退し、東映入り。1年目から快投を見せ、「怪童」の名をさらに高めた。
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