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平成助っ人賛歌

巨人・マック バリバリのメジャー・リーガーはなぜ来日したのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

巨人の大型補強時代の幕開け


巨人・マック


 1990年代中盤、雑誌が飛ぶように売れていた。

『週刊少年ジャンプ』は『DRAGON BALL』や『SLAM DUNK』といった看板漫画の怒濤の展開に引っ張られるように、95年(平成7年)の新年3.4合併号で653万部発行といういまだに破られることのない大記録を打ち立てている。当時、発売日の月曜早朝には朝一番で読んで「クリリンはいいヤツだった〜!」なんて無意味に絶叫しながら教室に駆け込んでくる男子もいたほどだ。まさに雑誌黄金期で、バブル崩壊は90年代初頭だったが、世の中に不景気が実感されるのは90年代後半説にもうなずける。ちなみに北海道拓殖銀行の経営破綻と山一証券の自主廃業はともに97年11月の出来事である。

 振り返ると、少年ジャンプと同じく90年代中盤のプロ野球もまだ景気は良かった。94年は巨人と中日の“10.8決戦”がテレビ視聴率48.8パーセントと野球人気の健在ぶりを証明し、オフには94年8月12日から95年4月2日までの232日間にわたるMLB史上最長のストライキの余波で、ジャパンマネーと働き場所を求めた大物メジャー・リーガーたちが続々と来日することになる。当時のメジャー平均年俸は約1億3800万円、現在の約4億7150万円と比較するとそこまで日米格差もなかった最後の時代だ。バレンタイン新監督が就任したロッテにはフリオ・フランコ(ホワイトソックス)やピート・インカビリア(フィリーズ)、新生・王ダイエーには入団後ひと騒動起こすことになる89年ナ・リーグMVPのケビン・ミッチェル(レッズ)。そして、連覇を目指す長嶋巨人には、91年ツインズで世界一に輝いたシェーン・マックが2年総額8億円の大型契約で加入する。

 前年のマックは右肩手術とストの影響で81試合の出場ながらも、打率.333、15本塁打、61打点の好成績を挙げた。84年にはロス五輪のアメリカ代表にも選出され、同年のドラフトでパドレスに1位指名を受けたエリート選手で、来日時のメジャー7年間の通算成績は794試合、打率.299、71本塁打、352打点、80盗塁。年齢も脂の乗り切った31歳の外野手だ。当時の巨人は長年チームの顔を務めてきた原辰徳が現役晩年(95年限りで引退)、落合博満もすでに40歳を超えていて、松井秀喜はまだプロ3年目の20歳と発展途上。そこでチームの新たな柱として期待されたのが、このマックであり、ヤクルトから獲得したジャック・ハウエルや広沢克巳だった。なお開幕オーダーは「三番・松井、四番・落合、五番・ハウエル、六番・広沢、七番・マック」の超重量打線。さらに前年5勝しか挙げられなかった弱点の左腕強化で広島からFAで川口和久、近鉄からトレードで阿波野秀幸ら実績のある投手も掻き集めた。いわば1995年は巨人の大型補強時代の幕開けとも言えるシーズンだ。

巨人の長年の獲得ターゲット


週刊ベースボール95年2月27日号に掲載されたマックのインタビュー


 23年前の週刊ベースボール95年2月27日号は毎年恒例の選手名鑑が掲載されており、ゴジラ松井は好みの女性タイプを「色白でポッチャリ型」とやけにリアリティある回答、イチローは「鈴木杏樹」と懐かしのトレンディ女優の名を挙げている。そして、この号に収録されたのが貴重なシェーン・マックのインタビューである。来日早々に阪神大震災の被災者に100万円を寄付する心優しきジェントルマンで、プロ野球史上最高の条件で獲得したメジャー・リーグの四番打者に聞くウエルカム・トーク。「ジャンクフードは極力避けているが、日本のハンバーガーはヘルシーな感じだ」なんつって“マックがマックのハンバーガーを食べる”風のお約束の写真が微笑ましい。

 驚いたことに、この背番号12は巨人の長年の獲得ターゲットで、UCLAの学生だった84年には実際に契約の話を持ちかけ、ツインズ移籍前の89年にも巨人入りの可能性があったのだという。他にも前年に最終試合まで優勝を争った中日の今中慎二山本昌についての質問には「ビデオも見たけど、イマナカ、ヤマモトの2人はとてもいいサウスポーだったよ。大リーグで強いて挙げるとすれば、シアトル・マリナーズのランディ・ジョンソンに似ている感じがしたよ」なんてベタ褒め。気になるのは、自分では何番タイプだと思うかという質問に対して、「三番、四番、五番…それと六番かな。この打順なら、なんの制限もなく自由にスイングできるから。一番はカウントなどの状況に応じてボールを待ったりしなければいけないから、好きじゃない」と言いつつも、開幕直後に長嶋監督はマックを「一番・センター」で固定して起用する。

数字以上にメジャーの凄み


松井秀喜(左)とともにお立ち台へ


 1年目は120試合で打率.275、20本塁打、52打点、12盗塁と走攻守にわたり存在感を発揮。アメリカで右ヒジや右肩手術を経験していることもあり外野守備のスローイングは不安定だが、そのフェンスを恐れないダイナミックな外野守備とド迫力のベースランニングのスピードには敵将のヤクルト・野村克也監督も驚くほどだった。結局、ハウエルがシーズン途中に帰国するなど大型補強はハマらず3位に終わるも、マックは翌96年はクリーンアップに定着。時に激しいヘッドスライディングでチームを鼓舞しながら、落合が故障離脱した9月に三番・松井とコンビを組み、第63代四番打者として“メークドラマ”と呼ばれた逆転優勝に大きく貢献してみせた。2年間の在籍で通算247試合、打率.284、42本塁打、127打点、24盗塁。数字以上にメジャー・リーガーの凄みと風格を日本の野球ファンに教えてくれた。

 惜しむらくは、性格も真面目でチームメートたちとの関係も良好、これだけ安定した成績を残した働き盛りの選手を高年俸を理由に2年契約終了後にあっさり切ってしまったことだ。マックは97年にレッドソックスでメジャー復帰して、60試合の出場ながらも3割を超える打率を残した。逃した魚は大きく、ここからしばらく巨人は自前外国人野手の獲得に失敗し続けることになる(来日1年目の規定打席到達は2013年のロペス、20本塁打以上は2016年のギャレットまで出現しなかった)。

 なお20数年前、653万部を記録した少年ジャンプは昨年に200万部割れがニュースとなり、もはやプロ野球も年俸面でMLB球団相手にマネーゲームに持ち込むのは難しくなった。恐らく、マックのような向こうでレギュラーを張れる31歳の現役バリバリのメジャー・リーガーが、NPBでプレーするようなケースは今後しばらくないだろう。ちなみにこのストの影響で多くの一流選手が来日した1995年シーズン、日本からアメリカへ飛び新たな挑戦を切ったのが野茂英雄だった。今思えば、日米球界ともに大きな時代の変わり目を迎えていたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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