センバツ優勝時の柴田
100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。
赤い手袋の盗塁王で、スイッチヒッターの草分け的存在。V9
巨人の斬り込み隊長として活躍した
柴田勲は、高校時代はエースとして夏春連覇を果たしている。
法政二(神奈川)では1年夏から背番号12で出場したが、「あまり記憶はないんだよね。その後、3回行ったし、プロでも何百回行った球場だからね」と笑う。
秋は県大会決勝で
渡辺泰輔がエースだった慶応に敗れたが、2年夏は、その慶応に逆転勝ちして2度目甲子園へ。
初戦、御所工(奈良)に14対3で大勝した後、すべて完封で優勝を決めた。
当時の球種は「真っすぐとションベンカーブだけ。3年になって楽に投げるためにスライダーを覚えた」(柴田)。当時の高校生でスライダーを投げる投手はほとんどいなかった。
3年生のセンバツも当然のように出場。「自信があった。俺たちが優勝するんだとみんなが思っていた」という法政二は、危なげなく、夏春連覇を果たした。
続く夏も当然優勝候補。ただ、柴田は完全に慢心した。練習も試合も手抜き。ただ、それでも楽々と勝ってしまう実力があった。
夏の甲子園は浪商(大阪)に敗退。柴田は、怪童・
尾崎行雄を擁する浪商とは実は甲子園3度目の対戦。「打倒柴田」に燃えていた浪商に対し、柴田は「なんとかなるだろう」くらいの気持ちだったという。
接戦となったこの試合、最後は肩に痛みが走り、まともに投げられなかったという。この肩痛はなかなか治らず、プロでの打者転向につながった。
試合後、法政二のナインはみな悔し涙を流したが、柴田だけは涙が出なかった。
「きっと負けて悔しいと思うだけの練習をしていなかったからだと思う。あとから考えるとだけど、これだけやったというのがないと出てこない」
プロ入り後も、天才肌で、歯を食いしばっての汗だくの姿が似合わなかった印象もある。
ただ、黄金期の巨人でレギュラーを張り、2000安打を達成した陰に努力がなかったはずがない。
あのとき泣けなかった思いが、柴田の野球人生を変えたのは間違いない。