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2018甲子園

大会回数と年齢が合致する“現象” 終戦の日の夏の甲子園――。

 

「空白の4年」によって


8月15日、終戦の日のレジェンド始球式は安仁屋宗八氏(沖縄高、元広島ほか)が行った


 第100回の歴史を積み重ねてきた夏の高校野球を振り返る上で、不思議な数字が存在する。西暦生まれで、いつの時代にプレーしたのか分かるのだ。例えば、第74回大会に出場した選手は、留年などの諸事情を除いて1974年生まれ(75年の早生まれ)。今夏、第100回大会の3年生の多くは、2000年生まれということになる。すなわち「第●回大会」に出場したかによって、多くのケースで年齢が一発で当たるわけだ。

 この“からくり”が実現したのも、「空白の4年」が影響している。第1回中等学校優勝野球大会が、豊中グラウンド(大阪)で開催されたのは1915年。3年前の2015年は夏の高校野球が始まって「100年」と話題になったが、実際は「第97回大会」だった。第二次世界大戦中の41年から45年は中断(41年の第27回大会は地方大会の期間中に中止)されている。

 戦前最後の優勝校は40年(第26回大会)の海草中(和歌山)。V投手の真田重蔵(のち朝日軍、大阪タイガースほか)は1923年生まれ。戦後、大会が再開されたのは46年(第28回大会)。優勝投手の浪華商(大阪)の平古場昭二(のち慶大、全鐘紡)は、1928年生まれである。42年から45年にわたるこの4年の中止によって、以降、大会回数と年齢が合致する“現象”を呼んだのである。

 8月15日は「終戦の日」。平和の大切さを感じる日である。この日の「レジェンド始球式」は安仁屋宗八氏(沖縄高、元広島ほか)だった。1944年生まれで、米軍統治下にあった62年、南九州大会を制して甲子園に出場している。73歳とは思えないしっかりとした投球を披露し、スタンドを盛り上げた。

「僕が生まれたのは(戦争の)終わりのころだったんですけど、すごく良い日に登板させてもらった。感謝しています」

 広陵との1回戦で敗退(4対6)した、56年前の思い出を語る。

「当時はパスポートがないと本土に渡れない時代。南九州大会から本土にずっといて、そのまま甲子園。食事の面で困り、うれしい反面、きつかった。沖縄の食事は脂っこいんですが、本土はさっぱりしていて、慣れない部分で、スタミナ不足だったかな、と」

 そしてこう、言葉をつないだ。

「第100回大会を迎えて、日本が平和でないと続かない。1年でも長く継続してほしいと願っています」

「平和」と向き合った2時間26分


 この日の第2試合には沖縄代表・興南が2回戦(対木更津総合)で登場した。戦没者の慰霊と永遠の平和を祈念して、正午の時報を合図に1分間の黙とうをするが、このタイミングと興南の試合が重なった。1963年の第45回大会から続けているという。ちょうど興南の4回裏の攻撃中で、三塁コーチの安里啓志(3年)はグラウンドでその時を過ごした。

「ここまで野球を続けてこられたのも、世の中が平和であったからこそ。今までの偉大な先輩方が、甲子園を通して魅力を伝えてきてくれたから100回大会までつながってきた。その場に立たせていただいていることに、感謝の言葉しかありません。黙とうの間は、そういう気持ちを込めていました」

 戦後73年。興南は惜しくも2回戦で敗退したが「平和」と向き合った2時間26分は、忘れられない夏となったに違いない。興南・我喜屋優監督には不変のモットーがある。

「高校野球は土台づくり。野球は9回で終わるが、人生のスコアボードは続いていく。そのスコアボードと一生、戦っていかないといけない」

 平成最後の夏、この日で引退となる2000年生まれの3年生。次世代を担う若者に、この言葉を送るのだ。

文=岡本朋祐 写真=田中慎一郎
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