『ベースボールマガジン』で連載している谷繁元信氏のコラム「仮面の告白」。ネット裏からの視点を通して、プロ野球の魅力を広く深く伝えている同氏だが、今回は代打に関して、だ。 いろいろな意味合いがある代打
代打という言葉は一つですが、そこにはいろんな代打があると思います。
たとえば比較的早い回に起用する代打。その中でも回の先頭では出塁が見込めるバッター、二死ランナーなしの状況では長打を打てる可能性が高いバッターと細かく分かれると思うんです。レギュラーを狙う若い選手がその対象になってきます。早い回の代打はセ・リーグの場合、基本的にピッチャーに送られますが、いまはキャッチャーが七番、八番に入ることも多いので、それまでの流れがよくないときにキャッチャーを代えてチェンジオブペースを図る意味合いが含まれることもあります。
中盤で、まだ点差が開いていなくて、試合がどっちに動くか分からない場面でも同じような使い方になるでしょう。
そして、中盤から終盤のここが勝負だという決定的なシーンでは、代打の切り札と称される、チームにおいて一番信頼の置ける存在を投入していくことになります。
代打をタイプごとに、どこで使おうかというシミュレーションはゲーム前に必ずやっています。コーチを通じて、それを選手に伝える。ただ、試合は絶えず動いています。場面ごとに猫の目のように変わる状況を見ながら、自分の置かれている立場を踏まえた上で、選手は準備しなければいけません。これが代打にとって大事なことだと思うんですよね。
僕がドラゴンズの監督だったときの代打の切り札は小笠原道大。ここぞという勝負どころで起用していました。大打者が積み重ねてきた経験というのは、やっぱりチャンスで生きてきます。それ相応の駆け引きというのは経験がないとできませんし、バッティング技術がトップの選手なら常になんとかしてくれるだろうという思いで、代打を送っていました。
とはいえ代打というのは本当に難しいと思います。僕はそれほど代打経験がないので分からないんですけど、準備の大変さは伝わってきます。いまの球場はベンチ裏にホームチームがティーバッティングをするだけのスペースがだいたいあるんですよ。それがビジターに行くと、なかなかない。素振りをしただけで出ていかないといけない。その素振りだけで150キロの真っすぐを打ち返せるかといったら、相当の集中力とバッティング技術がないと難しいです。
「代打、谷繁」より若手に経験を積ませたかった
兼任監督時代、僕がたとえば代打の一番手として出ていって、チームが機能するのかと考えたときに、あまり機能しないだろうと感じました。ですから、ゲームの流れがどうなるか分からないとき、ゲームがほぼ決まりかけたとき、もしくはここぞというとき、キャッチャーの打順で誰かを代打に出して、次の回の守りに僕が就くというケースが多かった。つまり、勝負どころで「代打、谷繁」をあまり起用しようとしませんでした。
当時の
森繁和ヘッドコーチ(現中日監督)に、ここは行ってくださいと言われることが何度もあったんですけど、僕の場合は、ちょっと考えが違うんです。自分が行って結果を出すよりも、ほかの若い選手に経験を積ませたほうが、今後このチームのためになるという思いが強かったんですね。それがダメだったのかもしれないんですけど、必ずしも間違っていたとも思っていません。
同じ兼任監督でも、
野村克也さんと
古田敦也さん、僕では違うと思います。古田さんは体調的に極限に近い状態でプレーイングマネジャーをやられていたので、もう「古田敦也」じゃないという感じだったじゃないですか。野村さんが就任した当時のように、年齢的に脂が乗っていて130試合(当時)すべてに出られるという兼任監督と、古田さんや僕みたいに現役がほぼ終わりかけていた兼任監督というのは全然違うと思うんです。出場の仕方、考え方も。ですから、同じ兼任監督というひとくくりにはできないと思います。
兼任監督といえば、古田さんの「代打オレ」が話題になりました。監督が代打で出ていくときはあくまで選手の立場なので、審判に直接
コールすることができないんです。それは“監督代行”の仕事。僕の場合はヘッドコーチの森さんが球審に告げていました。古田さんは代打で登場するときに自分自身を指さしてたので「代打オレ」みたいになってますけど、それを見て審判が選手交代を了解していたわけではないんです。
写真=BBM ●谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)
1970年生まれ。江の川高校(現・石見智翠館)にて甲子園に出場し、卒業後、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・
横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞を獲得しチームの日本一に大きく貢献。2002年に中日ドラゴンズに移籍。2006年WBC日本代表に選出され、2013年2000本安打を達成。2014年シーズンから選手兼監督になり、2016年現役引退を表明。通算3021試合出場、27シーズン連続安打、同本塁打を達成(いずれもNPB歴代最高)。2016年に中日ドラゴンズを退任後は、各種メディアで評論家、解説者として活動を行う。著書に『谷繁流キャッチャー思考』(日本文芸社)。