『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「パンチ佐藤の漢の背中」。「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回はパンチさんの亜大時代の1年先輩で現在は会社員の古川慎一さんとの「ブリキ軍団同窓トーク」をお届けします。 広岡GMにコーチ就任を打診され、現役引退
10年目のシーズンが終わった1995年秋、
広岡達朗GMに呼ばれ、二軍打撃兼育成コーチ就任を打診された。
まだ32歳。広岡GMと話をするまで、引退を考えてはいなかった。他球団で現役を続ける選択肢もあっただろう。だが、「ロッテで10年もお世話になって、せっかくそういう話をいただいたのだから……」と、二つ返事で就任を承諾。指導者生活が始まった。
パンチ 引退される前は走攻守、ケガとか衰えとかはあったんですか。
古川 足はまだ自信があったんだけど、肩は壊れてたね。それをごまかし、ごまかしやってたから。
パンチ 川崎ならいいけど、千葉に移って広くなりましたもんね。
古川 そう。ノーカットでは行けないなって。打つだけなら自信はあったんだけど、守備を考えると「この肩じゃちょっと……」と思って、もう潮時かな、と。
パンチ コーチの2年間では、何を学びましたか?
古川 コーチ1年目の監督が、黒江(
黒江透修)さん。そのとき今までのロッテと違う、よその野球を初めて知ったよね。それまで亜細亜とロッテの野球しか知らなかったから。コーチとして選手の見方が変わったね。
パンチ コーチは2年間やったんですね。
古川 そう。広岡さんが退陣して、その1年後にクビになった。たぶん、“広岡さん派”と思われたんじゃないかな。
パンチ プロはそういうのがありますよね。上が代わると、総入れ替えになるとか。
古川 コーチ2年目の10月に、来年は契約しないと言われたとき、一応球団職員とかスカウトとか仕事がないか聞いたんだけど、「ない」って言われて。
パンチ 古川さん、大学時代に「卒業後、どうするんですか」って聞いたら、「居酒屋かなんかやるよ」なんて言ってましたけど。
古川 最初は商売を考えていたんだよ。だけど、ウチのかみさんに大反対を食らってさ。かみさん、地道派で堅いんだ。
パンチ 良かったじゃないですか、そういう人が奥さんで。
古川 せっかく野球をやってきたんだから、地域で野球に関わる仕事がないかなと思って、役所の体育課とか、1カ月くらい回って歩いたよ。
自分で値決めをしての客先とのやり取りが楽しい
ロッテでは1年目から16本塁打をマークした古川さん
パンチ じゃあ、今の会社はまったくゼロからだったんですか? 僕はてっきり、応援してくれる方が引っ張ってくれたのかと思っていました。
古川 当時は今みたいに、野球アカデミーなんてなかったし、もう野球の仕事はないな、と思ってね。さてどうしようと考えていたとき、ウチの親父が自分の勤めていた会社の取引先だったここ(浪速刃物製作所)の営業の人にそんな話をして、その人が「ちょっとウチに遊びに来てみろよ」と言ってくれて……。行ってみたら、ちょっと面白い会社で、「楽しそうだな、やってみようかな」と思って。そのままずっと、ここにいるわけ。
パンチ 工業用刃物の会社ですよね。こういうジャンルって、初めは何が何だか分からないでしょう。
古川 だいたいは、親父から聞いていたんだけどね。鉄を切る刃物の会社だって。製鉄所とか結構大手の会社にアイテムを売っていて、パンフレットを見たとき、「こんな小さな会社がすげえ」って思ったもん。僕は工業高校の出身だから、鉄や鋼の用語とか、一応知識はあって、まったくの畑違いではなかったんだよ。
パンチ 最初の仕事は何ですか。
古川 そこは、畑違いの営業(笑)。
パンチ これまたどのくらいで「やっていけそう」だと思いました?
古川 会社対会社の、基本的にはルート営業で、最初はみんなに付いて回って営業。2、3カ月経ったところでお客さんを与えられて、1人で回るようになったんだけど、たまたまツキもあって、ウチの会社にとっていいお客さんを与えられたんだよね。大手ばかりだから、毎月の受注が多いわけよ。入ったとき、所長さんに「人が3年かかるところを半年で覚えろ」って言われていたんだけど、1年でもう係長になった。去年の9月からは、ここ(東京)の支店長。
パンチ すごいじゃないですか!
古川 支店長といっても、仕事内容は変わらないんだけどね(笑)。
パンチ この仕事で面白いと思ったのは、どんなところですか?
古川 ウチの会社だけでなく、製造メーカー一般に言えることだと思うんだけど、自分で値決めをできるんだよね。お客さんから「この刃物を見積もってくれ」と言われたら、寸法を出して計算して、他社との兼ね合いを見て自分で値段を決めて、「どうですか?」と。それで高いよ、安いよ、の世界になるわけ。そのやり取りが面白いんだ。
パンチ これから引退する選手に、何かアドバイスをお願いします!
古川 商売する人が多いけど、あんまり成功した人は聞かないよね。
パンチ あんまりね。今はサラリーマンが多いですよ。
古川 野球しかやってこない人が、経営学を学ばないで商売をやるのは、たぶん無理だと思うんだよね。
パンチ デーブ(大久保)みたいに解説をやりながら、いろんなツテで専門の人を引っ張ってきてっていうんだったらできるだろうけど……。やっぱりスポットの当たったスター時代のことは忘れて、一からやることですよね。野球選手だから、コツコツやるのは得意なはずだし。
古川 野球を辞めてすぐ商売に手を出すんじゃなく、2、3年スキルをつけてからやれば、成功すると思うんだよ。やっぱりスポーツ選手って、底力はあるから。
パンチ 反省して研究して努力してっていう。ちなみに、ここは何歳までいられるんですか?
古川 ウチは一応60歳定年で、延長が10年。いい会社だよ。
パンチ 長くやれていいですね。
古川 まあ、働けるうちは働いたほうがいいと思う。
パンチ さすが亜細亜大学の先輩、堅実ですね!
古川 野球をやっていたころはずっとお山の大将だったけど、仕事っていうのはこういうものだって、いろいろ勉強させてもらった。おかげさまで、自分でも成功できたと思うよ。
パンチの取材後記
古川さんは、やっぱり古川さんでした。大学時代、初めて寮の部屋に入ったときの、古川慎一先輩。体形も顔も話し方も変わっておらず、大きくて温かくて、強くて優しいところも昔のまま。
僕は妹しかいないので、あのこと古川さんを自分の兄貴のように感じていました。その“兄貴”は、寮生活が初めての僕を、いろいろな面で助けてくれました。そんな、たくさんの思い出がよみがえってきた対談でした。
僕の2個上で主務を務めていらした三井(博司)さんが、こうおっしゃっていました。
「レギュラーでもそうでなくても、亜細亜大学野球部で4年間頑張った者は、何の仕事でもできる」
古川さんは、まさにその見本のような人。亜細亜の後輩たちにも、今回の対談をぜひ読んでほしいですね。
<完>
●古川慎一(ふるかわ・しんいち)
1963年7月25日、東京都出身。春日部工高から進学した亜大では3年時にロサンゼルス五輪日本代表の一員として金メダル獲得に貢献するなど、大学球界を代表するスラッガーとして活躍。86年、ドラフト4位でロッテに入団すると1年目から打率.274、16本塁打。
落合博満がトレードで抜けた2年目は開幕四番に起用された。95年限りで引退し、二軍コーチを務めた。通算成績は569試合出場、打率.243、52本塁打、180打点。現在は株式会社浪速刃物製作所の東京支店長。
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年
オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。毎週日曜20時からFMたちかわにて『パンチ佐藤の“ガッツで行こうぜ!”』が絶賛放送中。
構成=前田恵 写真=山口高明、BBM