今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 長嶋茂雄は死球禍で一時離脱
今回は『1963年9月23日号』。定価は40円だ。
セ・リーグは巨人、中日の優勝争いがさらに激化していた。
9月8日時点でゲーム差3.0。しかも首位巨人は、好調だった
国松彰が自打球で1カ月の離脱となっただけではなく、9月7日には、長嶋茂雄が甲子園の
阪神戦でバッキーの投じたビーン・ボールくさい1球を右手薬指に受けた。
チームの象徴だけに痛手は大きい。
すぐさま東京から夜行列車で、球団専属で伝説の名医・吉田増蔵接骨医が大阪へ。診断の結果は、骨に異状なく、1週間ほどの離脱で戻れるという。
ちなみに、この時点で長嶋は変わらずセの三冠王。これまではすべて
王貞治と1、2位独占だったが、打率で異変があった。
長嶋.347に対し、
広島・
古葉毅が王を抜き、.332で2位につけた。
その広島に、沖縄の琉球煙草の投手・
安仁屋宗八が入団した。
複数球団の争奪戦となっていたのだが、いかんせん、安仁屋がいたのはアメリカの統治下にあった沖縄。なかなかスカウトが現地入りできず、どこも本格交渉ができなかった。
ただ、広島には日系人のフィーバー平山がおり、彼が沖縄に行き、契約をまとめたという。日本人なら申請から1カ月ほどがなければ沖縄に「入国」できなかったらしい。
一方、ほぼ南海優勝で決まったかに見えるパ・リーグでは、いまだ6ゲーム差ながら、西鉄があきらめていない。
その原動力が
稲尾和久だ。
とにかく、すさまじい勢いで投げている。
「カラスの鳴かない日はあっても稲尾の投げない日はない」とまで言われ、シーズントータルでは、386イニングを投げた年だ。
7月が77回3分の2、8月が63回と2カ月で規定投球回に届きそうな勢いだった。
たとえば、9月1日に先発し8回を投げた後、1日あけて3日のダブルヘッダーは第1試合に3イニング、第2試合は12回を完投している。
「気力でやっていく。もう勝つとか負けるではなく、力を出せるときに出すだけなんだ」と稲尾の言葉には悲壮感がこもる。
もはや55年前の話だが、明らかに常軌を逸していたと思う。
申し訳ないが、この連載の担当者は、いわゆる“スポ根”世代。命を削るようなパフォーマンスの美学は分かる。
ただ、これは違うのではないか。
このシーズンの稲尾は明らかに「神様、仏様」ではなかった。酷使による異常が出ながら、必死に歯を食いしばって投げていた。
成績を見ても分かる。
2年前、78試合404イニングに投げたときは42勝を挙げているが、この年は74試合に投げながら28勝。防御率も落ち、特に試合終盤に一気に球威が落ちた。
間違いなく、投げさせるべきはなかった。
稲尾はこの年28勝で最多勝、防御率2.541はリーグ3位。イニング数では2位の東映・
土橋正幸より85イニング多かった。
話が重くなったので、最後に軽めの雑ネタを。
5位に低迷していた国鉄・
浜崎真二監督の髪が急激に抜け始めたという。
あまりの勢いに驚き、医者に診てもらうと、自律神経の問題と言われた。
浜崎は「必死にAクラスに入ろうとやっているからだろう。今回の治療費は不振の選手に払わせてやるから覚悟しろ!」と、結構本気で怒っていた。
あまり軽くないか。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM