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プロ野球1980年代の名選手

掛布雅之【後編】「阪神の四番」の宿命を受け入れた“ミスター・タイガース”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

日本一の四番打者


阪神・掛布雅之


 1981年、掛布雅之は本塁打を捨てた。

「僕は中距離ヒッター。四番になったことで長打も意識したけど、この年は素の掛布で野球をやった。これで20本のホームランと3割3分以上の打率は確実に残せることが分かった。これが本来の自分。原点だと」

 最終的に23本塁打、打率.331。

「本当は、その後もあのままやっていたらとも思うんですが」

 その結果に、ファンは不満だった。

「ホームランを打たないと許されないんだな」

 阪神の四番。以前とは違い、それを自分の宿命だと思うようになっていた。かつて田淵幸一がそうだったように。そして、あらためて打撃改造に取り組んだ。

「僕はこの体だし、ホームランは狙わないと打てない。だから球の下、数ミリ単位でバットを入れられるかどうかにこだわった。それでボールにスピンをかけるんですね」

 そして82年、初めて四番打者として全試合に出場すると、35本塁打、95打点で本塁打王、打点王の打撃2冠。浜風を味方に左翼へ運ぶ“掛布アーチ”も多く、のちにバースも参考にしたものだ。打率.325もリーグ3位。翌83年にも33本塁打を放ち、続く84年には宇野勝中日)と並ぶ37本塁打で3度目の本塁打王。タイトル争いも過熱した終盤の10打席連続四球はセ・リーグ記録となり、物議もかもしたが、それほどタイトルにこだわっていたわけではなかった。むしろ、経験のない優勝に飢えていた。

 その夢がかなったのが85年だ。阪神は21年ぶりのリーグ優勝、そして2リーグ制となって初めての日本一。全試合で四番に座ったが、それまでとは違う感覚で打席に立っていた。自分で試合を決めるだけではない。三番のバースと勝負させる強い四番打者。好調な五番打者の岡田彰布につなぐ四番打者。本塁打を量産しながら、四球を選んでも高い出塁率を維持することの両立だったが、それを実現させた。あまりにも有名なバースから岡田への“バックスクリーン3連発”も象徴的だが、40本塁打、108打点で三冠王のバースに届かないながら、97四死球がリーグトップという数字も陰の象徴といえるだろう。

「あのメンバーの中で必要とされる四番としての役割を果たすことができたかな、という思いはありました。我慢もありましたが、優勝というものを手にすると、心地のいい、自分なりに意味のある、意義のある野球ができたのかな、と思っています」

 30歳。プロ12年目で初めて経験した快感だった。

天国と地獄


“ミスター・タイガース”と呼ばれた男は、どういうわけか天国と地獄の両方を味わう運命にある。“4代目”も例外ではなかった。

 86年にバースが一時的に体調を崩して離脱すると、気負いもあったのか死球禍で左手首を骨折。連続出場も663試合で途切れた。責任感もあって完治する前に出場したのが仇となって調子も上がらず、さらなる故障も続く。最終的に阪神は3位に転落。夢を1年で手放すことになっただけでなく、V逸の責任を一身に背負い、苦悶した。さらに持病の腰痛が悪化するなど、悪循環が続く。そして88年シーズン途中、突然の引退表明。多くの球団からラブコールがあったが……。

 ここで時計の針を78年オフに戻す。“3代目”田淵が西武へ放出されたときだ。

「最後までタテジマのユニフォームをまっとうしろよ」

“地獄”にあって、こう田淵は電話で告げた。

“ミスター・タイガース”と呼ばれ、まばゆいまでのスポットライトを浴びた一方で、多くのバッシングも受けた。だが、そんなファンやマスコミからの批判からも、阪神の四番という重責からも決して逃げず、真っ向から受け止め、たくさんの傷を負った。練習や努力を信じて這い上がってきた男は、あえて苦難の道を選び続け、そしてタテジマのまま終わる道を選んだ。

写真=BBM

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