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プロ野球1980年代の名選手

バース【後編】2年連続三冠王。手にした最強助っ人の称号も……/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

優勝、日本一の象徴的存在


阪神・バース


 一塁に定着したことで守備の不安が消え、日本人投手の攻め方が分かってきたこともあって、来日2年目の1984年は好調を維持。打率も3割に乗せていたが、父親の危篤で1カ月の離脱、チームも低迷して「わがまま」という批判がマスコミだけでなく球団フロントにも巻き起こった。またしても退団の危機。だが、オフに就任した吉田義男監督が「絶対に必要」と断言したことで、逆に年俸が大幅にアップして推定9600万円で再契約を果たし、故郷のオクラホマに甲子園球場の4倍もの広さの牧場を買うこともできたという。

 そして迎えた85年だったが、開幕から絶不調。15打数2安打、6三振、本塁打ゼロで挑んだのが、4月17日の巨人戦(甲子園)だった。三番打者として先発出場、1回表に2点を先制され、その裏に四球で出塁、五番の岡田彰布が左前打を放って本塁を踏んだものの、第2打席は併殺打、第3打席は二ゴロと、先発の槙原寛己に抑え込まれる。

 7回表にも1点を加えられ、その裏だった。二死一、二塁から甘く入った初球をとらえてバックスクリーンへ逆転3ラン。阪神が21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制となって初の日本一へと駆け上がっていく号砲と言われる一発だが、以降の打棒に火がついたのは、四番の掛布雅之、五番の岡田が同様にバックスクリーンへの本塁打で続いたからではないだろうか。この助っ人の持つ独特な好不調のスイッチは、そんなところにある気がしてならない。

 最終的には王貞治(巨人)の持つ当時のプロ野球記録シーズン55本塁打に迫る54本塁打に加え、134打点、打率.350で三冠王、MVPにも輝く。もちろん、後に掛布、岡田らが控えていたこともあっての数字だが、その三冠王は、阪神ファンにとっては歓喜の象徴であり、その存在は、神様や仏様と並んでも遜色ないものだったのだろう。西武との日本シリーズでも打率.368。3試合連続本塁打も放ち、やはりMVPに選ばれた。

 投手のクセを徹底的に研究して、ほかの打者も手本にした。同じ左打者で首位打者の経験もある長崎啓二のテクニックだけでなく、甲子園球場の右翼から左翼への“浜風”を利した掛布の左翼ポール際への本塁打も自分のものにしている。パワー一辺倒の打撃ではなく、巧打も際立ったのが翌86年だった。

 相手投手が真っ向勝負を避けるようになったこともあって、開幕後の絶不調は相変わらずだったが、ティー打撃用のマシンを自宅に手配するなど巻き返しを期すと、5月末になってエンジンがかかり、2試合にまたがる4打数連続本塁打、6月には7試合連続本塁打で王のプロ野球記録に並ぶ。その6月には13試合連続打点でプロ野球記録を更新。打率.389は現在もプロ野球記録として残る。やや数字を落としたものの、最終的には47本塁打、109打点で2年連続の三冠王に。ただ、阪神は3位に沈み、MVPは逃している。

“ミスター・タイガース”と似た運命


 87年は37本塁打、79打点、打率.320で無冠に終わる。その前の2年と比較すると低迷に見えるが、決して悪い数字ではない。しかし、阪神は最下位に転落。翌88年5月には長男の脳腫瘍が発覚し、その治療のために帰国すると、再来日の期日を明言しないなどの行き違いや、治療費の支払いに関するトラブルなどが続き、6月に解雇される。これを不当として球団との話し合いは泥沼化。古谷真吾球団代表の投身自殺という最悪の結末で幕を下ろした。

 わずか3年前の歓喜の功労者だが、その栄光の終焉は、あまりにも唐突だった。長男の病気を心配してのこともあっただろうが、ラストイヤーの不機嫌そうな表情は印象に残る。その後は米球界へ復帰したが、左ヒザの故障もあってメジャー昇格はかなわず、現役を引退している。

“ミスター・タイガース”と呼ばれた男たちの数奇な運命は、掛布の章で触れた。日本一の象徴とはいえ、わずか6年で去った助っ人が、その称号で呼ばれることはない。ただ、そのラストシーンは、どことなく似ている。

写真=BBM
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