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記録の周辺

西鉄・稲尾和久、「月間18試合登板」の真実

 

記録の神様、宇佐美徹也のこだわり


鉄腕と言われた稲尾


 1カ月の史上最多登板18試合。2日に一度でも届かない記録だ。

 2リーグ制度、1956年の西鉄・稲尾和久、2013年のロッテ益田直也の2人しか到達していなかったが、8月、この記録に並ぶ投手が2人、生まれた。

 最初は8月30日、広島の左腕・フランスアだ。
 ドミニカ・カープアカデミー出身で2016年は四国アイランドリーグでプレー。今年のキャンプで広島と育成契約を結び、5月に支配下登録となった。
 リリーフ陣が総崩れ状態となった中で、8月は18試合に登板。防御率0.51の安定感でチームのVロードに貢献している。

 31日の達成はオリックスの左腕・山田修義。こちらは8月が今季の一軍初昇格で、いきなりの18試合だった。
 必ずしも好結果を残しているわけではないが、左腕不足のブルペン陣の中、重宝されての記録達成と言えるだろう。

 今回は少し長くなるが、記録の面白さについて書いてみたい。
 断っておくが、2人の記録にケチをつけるわけではない。特にフランスアの記録は文句なしにすごい。

 ただ、フランスアが最終日、8月31日に登板しなかったとき、「忖度(そんたく)したな」と思った。
 1956年9月、最初にこの記録を作った西鉄の大投手・稲尾に対してである。
 しかも、広島は多少、この人に借りがある。

 西鉄ライオンズ黄金時代、「神様、仏様、稲尾様」と言われた伝説の鉄腕だ。56年からの3年連続日本一の立役者となり、61年にはシーズン42勝の日本最多タイ記録も達成。入団からわずか8年、28歳で234勝まで積み上げた。
 しかし、酷使もあって翌年から急失速。最終的には32歳で引退し、通算勝利は276勝だった。

 かつて1シーズンの最多記録も稲尾が42勝を挙げた61年の78試合だった。投球回数404イニング、25完投。不滅の大記録とも言われた。

 ただ、投手の分業制が確立すると、リリーフ投手の登板数が一気に増える。
 最初に危うくなったのは84年、阪神福間納だった。普通に行けば抜けたはずだが、これをよしとしなかった人物が、「記録の神様」と言われた報知新聞社の宇佐美徹也氏だ。

 宇佐美氏が憤りを感じたのは、福間が短いイニングで連投を重ねるリリーフだったからだけではない。その起用法に「記録を作るため」の作為を感じたからだ。

 当時の阪神監督・安藤統夫に手紙を送り、真相は分からないが、記録はあと1試合で届かなかった。

 ただ、福間が大した苦労もせず、この試合数を重ねたと思うなら間違いだ。前年の83年は主にリリーフで69試合に投げ(先発2試合)、規定投球回に到達する130回3分の2で、防御率は2.62。最優秀防御率に輝いている。この84年はすべてリリーフで77試合、119回3分の1に投げた。
 翌85年は、あの優勝、日本一だが、この年も58試合104回3分の1に登板で貢献。虎が誇る「鉄腕」だ。

 結局、稲尾の記録は2001年、広島の菊地原毅に並ばれ(このときも宇佐美氏は疑問を呈するコラムを発表したようだ)、05年には、藤川球児(阪神)に抜かれた。現在の最多は2007年、同じく阪神・久保田智之の90試合。稲尾の記録はいま、歴代5位となっている。

 ただ、だからと言って稲尾の記録の輝きが薄れるわけではない。それは久保田の記録も同様だ。

 長い時間にまたがるプロ野球の記録はそういうものだと思う。

 時代とともに野球は変わり、記録の「意味」もまた,変わる。
宇佐美氏が存命なら、今回の件も、あらためて稲尾という伝説の大投手の記録が脚光を浴び、若いファンの目にふれたことを喜んでいるのではないか。

三原脩監督の計算


稲尾と握手する三原脩監督は「花は咲きどき、咲かせどき」という言葉を好んだ



 56年の稲尾はルーキーイヤーだった。

 別府緑ヶ丘高からのプロ入り。キャンプでの打撃投手扱いから頭角を現し、終盤には首位南海の追い上げ、西鉄逆転優勝のキーマンとなった。

 最終盤の9月が今回の記録達成月だが、18試合登板で、投球回74回3分の2。先発は6試合ながら、逆にリリーフで7回1/3を投げた試合もある。
 さらに言えば、稲尾は10月に入っても5日までに6試合に投げた。
 チームは翌6日に優勝を決め、同年の稲尾は61試合登板21勝6敗、防御率1.06だった。

 稲尾の連投は、当時でさえ「酷使の世界記録」と書いた評論家もいたほどだった。しかしながら当の稲尾は呑気そのもの。自著によれば「楽しくてたまらない毎日を送っていた」と振り返る。ただし、それは大下弘に連れられた、遠征先の夜遊びのほうだったようでもあるが……。

 起用した三原脩監督に対しても、はっきり書いている。
「監督がまた俺の給料を上げてくれる。使ってくれてありがとうと思っていた」

 三原という監督のシビアな合理主義もある。
 先発は6試合と書いたが、完投は完封勝利の20日高橋戦のみ。ほかは抑えていても6回を目途に変えていた。逆に抑えで7回以上投げている試合もある。
 正直、勝利投手を稲尾につけたい、という配慮はあまり感じられない。
 チームが勝つために、稲尾という投手をいかに使うかに徹していた。

 球数も100球越えは完封ゲームの107球だけで、ほかは90球も超えていない。1試合60、70球を目途に投げさせ、2日間の連投(ダブルヘッダーも含め)の場合は合わせて100球程度になっている。
 唯一の例外が9月22日からの南海との5連戦。いわゆる「天王山」だ。

 1戦目最後2回を28球、無失点で抑え、勝利投手。翌23日はダブルの2試合目で先発し、6回を79球、1失点に抑え、勝利投手。そして最後24日は第1試合に抑えで5回3分の2を82球、2失点でチームは引き分けた。

 このとき以外は、あくまで「当時なり」ではあるが、三原監督が細かく計算して使っていたことが分かる。

 ただし、それは稲尾の選手寿命への考慮ではなく、いかに数多くマウンドに送り出し、最大限の力を発揮させるか、だったと思う。
「花は咲きどき、咲かせどき」
 三原監督が好きだった言葉だ。

 稲尾自身、球数が少ないタイプだったことある。
 だいたいで申し訳ないが、この1カ月の記録を見ると、1イニングあたりの球数は12、13球程度。打者4人と考えれば、1人3、4球だろうか。
 当時の稲尾の球種は、ストレートとナチュラルのシュート、スライダーだったというが、奪三振は決して多くない。制球力にも優れ、新人ながら「打たせて取る技術」が巧みだったと推測できる。

 稲尾の肩ヒジが完全に壊れてしまったのは63年だが、もし、58年退任の三原監督が続投していたらどうなっていたのだろうか。

 もしかしたらだが、もう少し選手寿命は延びたかもしれない。
いや、もっと早くつぶれたかもしれない。
 シーズン42勝はできなかっただろうが、逆に通算勝利は300を遥かに超え、金田正一(国鉄ほか)の400勝に迫っていたかもしれない。

 これもまた、宇佐美氏、本誌好評連載「記録の手帖」の筆者・千葉功氏をはじめ、記録にこだわり、記録を深く愛した先輩の皆さんが、膨大で詳細な記録を残してくれたからこそ楽しめる想像ではある。

文=井口英規 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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