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プロ野球1980年代の名選手

山田久志【後編】阪急の終焉とともにユニフォームを脱いだサブマリン/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

運命の84年


阪急ラストイヤーの1988年、ユニフォームを脱いだ山田久志


 1984年、開幕3連勝を飾った阪急は、5月下旬からの13連勝で首位を不動のものとすると、9月には5年ぶり10度目のリーグ優勝。投打の主役は最多勝、最優秀防御率の投手2冠に輝いた今井雄太郎、外国人選手として初めて三冠王となったブーマーだったかもしれないが、開幕戦でチームに火をつけたエースの存在を忘れてはならない。

 14勝4敗と、70年代に比べれば勝ち星は減らしているが、その特徴でもある勝ち越しの大きさは完全復活。リーグトップの無四球完投4という安定感で、防御率でも今井に次ぐリーグ2位につけた。

 だが、これは阪急にとって最後の美酒でもあった。印象的なのが広島との日本シリーズ、ともに3勝3敗で迎えた第7戦(広島市民)だ。ブーマーが完璧に抑え込まれ苦戦を強いられている阪急で、先発のマウンドに上がったのは、やはりエースの山田久志だった。ヒザを痛めながらも、それまで2敗を喫しているエースは力投を見せる。しかし、打線が三者凡退に終わって迎えた7回裏、先頭打者で投手の山根和夫に中前打を許すと、上田利治監督は今井をマウンドへ送った……。

 この瞬間は、阪急の“終わりの始まり”にも思える。阪急はパ・リーグの優勝チームには見えないほど、まるで別のチームになってしまったかのように、一気に勢いを失った。“野球の神様”がいるとして、それが各チームを分担して見守っているものだったとしたら、その瞬間に阪急の“神様”が阪急を見限ったかのように……。

 その7回裏にバント処理のミスから一挙3点、8回裏にも2点を失って完敗。もちろん、投手の交代で試合の流れが変わっただけであり、それは単なる1敗であり、その1敗が日本一を逃したものだった、というだけのことかもしれない。事実として残るのは、山田久志という球史に残るサブマリンの日本シリーズが終わったこと、力投むなしく0勝3敗という結果となったこと、そして阪急という名門チームが4年後に歴史を終えることだけだ。

 翌85年。もちろん、そんなラストシーンが用意されているとは誰も知らない。左ヒザの半月板に爆弾を抱えながら、11年連続で開幕のマウンドに上がったが、打球を追って再発、無念の降板となる。それでも、最終的には全盛期に肩を並べるかのように18勝。続く86年のロッテとの開幕戦(川崎)は2年ぶりに完投勝利で飾ったが、前年の三冠王でもある落合博満に本塁打を許し、しかもシンカーをとらえられて、喜びも半減。

「あれは駆け引き。力勝負ではなく、狙い球をいかに外すか、シンカーをどこで投げるか。落合は最初、シンカーは打てんかった。それが途中から空振りがなくなった。ホームランをどんどん打たれたわけじゃないけど、ほとんど芯に当てられた。そんなの落合だけだね」

 これが最後の開幕投手であり、14勝9敗で最後の2ケタ勝利にもなった。

そして阪急とともに


 87年、開幕投手となったのは佐藤義則だった。通算300勝という目標はあったが、「意気に感じて投げるほうだし、正直ガッカリしましたね。意欲がなくなったのは確か」。

 最終的には7勝。4勝に終わった88年は、6月21日の西武戦(西武)で清原和博に本塁打を浴びた。86年、清原にプロ初本塁打を許し、「シンカーを打った」と言ったルーキーに対しては「あれはストレート。お前に俺のシンカーが打てるか」と言っていた。だが、この88年の一発で、引退を決意する。

 通算284勝。アンダースローで負荷がかかり続けた腰に加え、84年の日本シリーズで痛めたヒザも悲鳴を上げていた。阪急の球団譲渡が発表されたのは、それから約4カ月後の10月19日。もしかすると、阪急の“神様”が、去っていくエースの花道に、阪急という最高の同行者を添えたのではないだろうか……。

 もちろん、球団譲渡が“大人の事情”に過ぎないことは承知している。ただ、そんな神話を描いてみたくなるほどに、エースとチームの物語が絡み合っていたのは確かだ。

写真=BBM
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