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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

ヤクルト初の日本一、勇者のサブマリンの告白

 

「あれはファウルやからね」


1978年、阪急を下して日本一に輝いた広岡達朗監督率いるヤクルト


 1978年。ヤクルトスワローズが球団創設28年目にしてリーグ初優勝、日本一になってから40年の歳月が流れた。あの年をリアルタイムで記憶している野球ファンも少なくなりつつあるだろう。

 発売中の『ベースボールマガジン』10月号では、その78年を中心に、時代を超えて東京ヤクルトスワローズが大特集されている。

 スワローズ一色の中で、敵チームの視点が織り込まれているのが興味深い。78年の日本シリーズでヤクルトの軍門に下った元阪急ブレーブスの足立光宏氏へのインタビューが、それだ。

 70年代の阪急といえば、ポストV9時代の絶対王者として威勢を誇っていた。75年、赤ヘル旋風でセ・リーグ初制覇した広島カープを日本シリーズで破ると、翌76年からは2年連続で長嶋茂雄監督率いる巨人を連破し、3年連続日本一を達成。その阪急で山田久志と並ぶアンダースローの二枚看板を形成していたのが足立氏だった。すでにベテランの域に差し掛かっていたとはいえ、老獪なピッチングで、日本シリーズの大舞台ではずば抜けて強かった。

 78年は阪急が4年連続日本一を懸けた日本シリーズで、ヤクルトを迎え撃った。かたやリーグV4、こなたセ・リーグ6球団の中で最後に優勝し、日本シリーズ初体験のヤクルト。下馬評では圧倒的に阪急有利と見られていた。

 しかし、いざフタを開けてみると広岡達朗監督率いるヤクルトは大健闘、3勝3敗で第7戦を迎えた。

 そこでいまだに語り継がれるのが、ヤクルトの主砲・大杉勝男の打球がホームランかファウルかを巡って、阪急・上田利治監督が繰り広げた1時間19分の猛抗議である。

 大杉の「疑惑のホームラン」を浴びた張本人である足立氏は40年前を振り返って、こう断言した。

「あれはファウルやからね」

 ヤクルトが1対0とリードしていた7回裏一死、大杉が放った大飛球は微妙な角度でスタンドに飛び込んだ。いまなら即リプレイ検証モノのプレーだが、当時は外野線審(富沢セ・リーグ審判)が下した判定は、絶対だ。二度と覆らない。にもかかわらず、指揮官は強硬だった。

黄昏を迎えた黄金に輝く太陽


 のちに上田監督は「普段であれば抗議はチームや選手のことを考えて引くタイミングがある。選手やチームが一番燃えて、よし次のプレーとなるタイミング。僕だって判定が覆らんのは分かってるから。でも、あのときはそれができんかった」と振り返り、「あれは死んでも覚えてるんちゃうかな」と笑った。

 上田監督は、放棄試合も辞さずの覚悟で抗議を続けた。最後は金子コミッショナー、当時の阪急球団社長まで説得に当たり、ようやく矛は収められた。試合再開。この時点でヤクルトの2対0。冷静に考えれば、勝負はどう転ぶか分からなかった。だが、夕闇迫る後楽園球場の中で、阪急は完全に戦闘戦意を失っていた。

 この年、ヒザの故障で4勝止まりも日本シリーズでの実績を買われて第3戦に登板、完封していた足立氏だが、続投の意思はなかった。中断明けにマウンドに上がった松本はマニエルにホームランを浴びた。「上田監督は、引き際を失ってしまった」と足立氏は振り返る。

 ヤクルトが歓喜の初優勝を遂げた、その裏で、ブレーブスの黄金に輝く太陽は黄昏を迎えていた。

 今回の足立氏へのインタビューは78年を多面的に振り返る上で貴重な内容になっているので、当時のブレーブスファンはぜひご一読ください。

ベースボールマガジン10月号


文=佐藤正行(ベースボールマガジン編集長) 写真=BBM
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