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平成助っ人賛歌

巨人・マリオ メークドラマに貢献した守護神の波瀾万丈な野球人生/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

台湾球界から電撃入団


巨人・マリオ


 1996年4月15日の月曜日、テレビ業界では2つの大きな出来事があった。

 フジテレビ系列で21時からドラマ『ロングバケーション』の初回拡大版、22時30分からは『SMAP×SMAP』の第1回が放映されたのである。もちろんその中心にいたのは当時23歳の木村拓哉だが、キムタクはドラマ第1話で、背中に「NOMO」とプリントされたドジャースの背番号16Tシャツで登場しているところに歴史を感じさせる(今ならエンゼルス大谷翔平の17番だろうか)。火曜日に高校へ行くと、毎週なんとなくこの2つの番組の話題になり、教室の後ろのロッカーの上に置いてあるCDラジカセからは、昼休みになると安室奈美恵やglobeの曲が流れていたのをよく覚えている。

 平成8年の同じころ、プロ野球界で話題になっていたのが“スーパーマリオ”こと巨人のマリオ・ブリトーだ。この年の長嶋巨人は開幕ロケットスタートに失敗して4月に借金5と出遅れる。石毛博史西山一宇のダブルストッパー構想も早々に崩壊。ブルペン整備が急務となっていたが、直後に緊急獲得したのが30歳のマリオ・ブリトーだった。

 前年まで、バルビーノ・ガルベスと同じく台湾の兄弟エレファンツに所属していたドミニカ人右腕は4月24日に電撃入団発表、5月4日に出場選手登録されると、7日の広島戦(東京ドーム)の7回途中で2番手としてデビューを飾る。早速、最速145キロの直球に多彩な変化球を操り、2回1/3を4連続三振を含む1安打無失点投球で来日初セーブを挙げ、先発・岡島秀樹のプロ初勝利をアシストした。

 週刊ベースボール5月27日号の“1996 熱闘EXPRESS”によると、長嶋茂雄監督は「実戦タイプですね。これでチームのバランスもかなり変わってくるんじゃないですか。野手との信頼関係が取り戻せますから」とう〜んいいですね〜的に褒め、堀内恒夫投手コーチも「ガルベスが剛ならマリオは柔。ものすごくピッチングが上手い。頭がいいんだよ」なんて背番号49に対して絶賛の嵐。ファンの間では、マウンド上で堂々とフォークボールの握りを打者に見せる型破りな落差50センチの“お化けフォーク”が話題になった。

 表紙に“GTニューパワーにインタビュー”と書かれた週刊ベースボール96年6月10日号では、そんなマリオの独占インタビューが掲載されている。チームは5月27日現在で4月の借金をすべて完済し貯金1のリーグ3位。来日8試合の登板で1勝5セーブ、防御率0.66の文句なしの成績を残す“我らがスーパーマリオの辞書に「不可能」の文字はない!?”という見出しに、「日本でセーブの新記録を作って、アメリカ球界を見返してやるんだ」と決意表明とも取れるタイトルがついている。もちろんこの時代の週べ助っ人インタビュー恒例のシェーン・マックと鉄板焼きステーキを囲む、ほのぼの食事写真も確認できる。

野手としてプロ入りを目指すも……


 30歳で日本に来たマリオの野球人生も波瀾万丈だった。貧困から抜け出すには野球選手かミュージシャンになるしかないと言われるドミニカ共和国での大学時代は、「四番・センター」で野手としてのプロ入りを目指すも、86年にエクスポズのテストでスカウトから「センターからホームへ投げてみろ」と指示され投手転向。マリオも「野手なら取らないと言うから、仕方なく投手になったんだ」なんて嘆き、さらに92年からは先発からリリーフへ配置転換する。そんな流浪の野球人生を支えていたのは、89年にキューバ出身コーチから学んだ必殺のフォークボールだった。

 しかし94年、ブリュワーズ傘下の3Aニューオーリンズに在籍中に「ブリュワーズのトレーナーがオレの肩をストレッチしていたときに、骨ごとポッキンと折っちまいやがって…。自分じゃやり過ぎじゃないかと思うくらい、無理に曲げられてね」と驚愕の事実を告白。失意のまま翌年に台湾球界へ渡り、1年プレーしてアメリカへ戻ったと思ったら、突然の東京ジャイアンツ入り。母国から渡米3日目に日本行きを知った奥さんはショックで泣き出してしまったという。メジャー経験はなし、来日前年の台湾時代成績は22試合で3勝4敗7セーブ、防御率3.16と平凡な数字で、年俸1000万円の巨人入りに前評判は決して高いとは言えなかった。

 それが、来日すると圧倒的な人気と知名度を誇っていた長嶋巨人の救世主扱い。だが、“スーパーマリオ”のニックネームについては、「オレのほうがゲームのマリオよりも先に生まれたことだし、そのマリオと重ね合わせてヒーローのように周囲が見ることは、あまり気にしても仕方がないだろう」なんつってクールに一蹴。とにかく「オレにチャンスを与えてくれなかったアメリカを見返してやりたいんだ」とセーブ日本記録更新に意欲を見せるのだった。

 正直、これほど堅く殺伐とした助っ人インタビューは珍しい。それだけ、新天地で生き残ろうと必死だったのだろう。当時の週刊誌では、たびたび「意外にもナーバスで謙虚、ガルベスとマリオの二人合わせてわずか年俸3500万円の助っ人コンビ」記事が確認できる。とにかく彼らはハングリーだった。

 マリオとは少年時代からの知り合いだったガルベスは言う。

「自分たちはどこでもいい。野球ができて金が稼げればいいんだ。アメリカの3Aでも喜んでプレーするが、それより台湾のほうが多くゲームに出られるし、収入も多い。もしここでやれなくなれば、また次のところを探す」

後半戦に急失速で抑え剥奪


チームはメークドラマで逆転優勝。マリオもビールかけに興じたが……


 そんな「日本は東洋のメジャー」と来日したドミニカンコンビの活躍もあり、巨人は最大11.5ゲーム差を逆転するメークドラマで逆転優勝を飾る。マリオは決め球のフォークを攻略された後半戦に急失速して、抑えのポジションも剥奪されてしまうが、39試合で3勝2敗19セーブ、防御率3.33の成績を残した。

 8月29日の広島戦では9回一死から同点アーチを浴び、槙原寛己の93日ぶりの白星を消し、「ゴメンナサイ……」なんて片言の日本語で謝った真面目で心配性のマリオと、時に問題児と揶揄されながら我が道を爆走したガルベス。結果的に生き残ったのは後者だった。シーズン終盤の『週刊宝石』には「アメリカはハードだ。大好きな巨人がダメなら他球団でもいい」と日本残留を強く希望するマリオのコメントが掲載されているが、結局どこからも声は掛からず1年限りで退団。のちに巨人で開幕投手を務めるまでに成り上がったガルベスとは対照的に、翌97年から再び台湾球界へ戻った。

 あれから22年。SMAPはすでに解散し、木村拓哉は45歳になった。安室奈美恵や小室哲哉は引退を表明したし、フジテレビの栄光も今は昔だ。あらゆるものが変わったが、東京ドームの巨人戦マウンドでは、育成選手から這い上がったメルセデスとアダメスの“現代のドミニカンコンビ”が投げ続けている。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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