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週刊ベースボール60周年記念企画

長嶋茂雄のグラウンドの恋人去る/週べ1964年2月3日号

 

 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。

打撃投手第1号・近藤隆正、退団


表紙は左から西鉄・田中勉稲尾和久安部和春



 今回は『1964年2月3日号』。定価は40円だ

 各地のキャンプ情報満載号だ。
 先日、現役選手でありながら、ほぼ打撃投手としてしか使ってもらえなかった巨人近藤隆正投手が怒っているという話を書いた。

 近藤は主にONの打撃練習に投げ、“ONの恋人”とも言われたが、結局退団したようだ。

 宮崎キャンプで汗を流していた長嶋は、人に託し、大分県の故郷に帰った近藤に時価50万円の日本刀を贈った。

 長嶋は、「近藤のことは忘れられんな。キャンプに熱が入ると、彼が恋しくなるよ。いつでもいいから東京に来たら会いに来てくれ」と伝言した。

 近藤は所用でその人と会えず、日本刀は弟が受け取り、その際、弟は兄からの伝言として、
「巨人軍で長嶋さんに可愛がられたことをとても大切な思い出だと言っています。どうかグラウンドの恋人は去っても、今度は本当の恋人を決めて1日も早く結婚してください」
 と言ったとか。

 映画「勝利の旗」は完成したようだが、そこに入れたくなる逸話。ただ、いい悪いではなく、長嶋茂雄が多少神格化されつつある雰囲気もある。

ジプシー後藤の9球団目は?




 ジプシーと言われ、球団を渡り歩いた左腕・後藤修の手記があった。181センチとしては当時としてはかなりの長身。しかも左腕だ。常に各チームのコーチングスタッフに「可能性」を感じさせたのが、流浪の人生につながったともいえる。

 後藤は磐田南高から52年、松竹ロビンス入り、そこで新田恭一から投手理論を学んだ。
 この新田という人は、やや理論優先のきらいはあったが、かなり論理立てて投球、打撃を解析した指導者だった。のちゴルフの指導者となった後藤の源流とも言えるだろう。

 実際、新田の打撃術は「ゴルフ理論」とも言われた。いかにヘッドを利かすか、という考え方だったのだろう。

 ただ、翌年松竹は大洋と合併し、洋松ロビンスに。この年の途中から外野手になったが、翌54年、松竹勢一掃の流れとなり、後藤もクビに。

 55年、今度は東映に拾われ、投手復帰。初めて一軍登板も果たしたが、1年で再び整理選手となり、今度は大映にまたも外野手で入団。
 すぐ投手に戻り、同年キャリアハイの6勝(12敗)。

 1年で巨人へ。もしかしたらこれで唯一のヘッドハンティングだったかもしれない。

 57、58年を投手で過ごした巨人は「充実していた」という。しかし59年、監督となった千葉茂を追うように近鉄へ。「なぜ巨人を飛び出したかは言いたくない」とあった。

 近鉄時代、周囲から変人、変人と言われた後藤が千葉監督に聞いたことがある。
「千葉さん、僕は変人じゃないですよね」
 すると千葉は、
「お前も変人かもしれんが、ワシも変人や。大阪くんだりまで来て、このざまだ」
 と答えたという。近鉄は最下位にあえいでいた。

 61年、今度は南海へ移り、63年は西鉄へ。若林忠志コーチに買われてだったと以前に記事にあったが、この手記では、62年途中に西鉄に移り、若林のコーチ就任はその後とある。
 当時、周りからは「東京から大阪、今度は九州。次は海外か」とからかわれたともあった。

 いずれにせよ、63年限りで西鉄をまたも解雇。中西太監督と合わなかったらしい。

 この手記は、阪急のキャンプに参加し、テストを受けていたときのものだったが、阪急に在籍した記録はない。不合格だったようだ。

 写真2枚目、アップ失敗しました。今回は断念します。

 またあした。
 
<次回に続く>

写真=BBM

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