週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

谷沢健一【後編】対江川、対西本……投手によって変えた打撃/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

さらに進化する打撃



 1980年は打率.369をマークして、カムバック賞もかすんで見える2度目の首位打者。初の獲得となった76年の打率.355をも上回った。スイングに思い切りが出てきて、27本塁打、80打点も自己最多を更新。76年は11本塁打、52打点だったから、ただ完全復活しただけではないことが分かる。右方向への長打が増え、特に76年は6本塁打だった右翼方向への本塁打は、80年は16本塁打と、10本の上積みだ。

 どん底から一気に頂点へ駆け上がったかのようだったが、さらに打撃は進化していく。打率こそ80年が自己最高だったが、新たなヒッティングマーチ『帰ってきたウルトラマン』に乗って、持ち前の巧打を維持しつつ、長打力と勝負強さには磨きをかけていった。翌81年は終盤の9月に、2試合にまたがる4打数連続本塁打を放ってプロ野球記録に並ぶ。最終的には28本塁打となって、2年連続で自己最多を更新した。

 続く82年は四番打者として若い打線を引っ張り、さらに勝負強さを発揮。中日は巨人と激しい優勝争いを展開、投手陣に故障者が続出した中日の一方で、巨人は江川卓を中心とした盤石の投手陣。その投手陣の攻略が優勝のカギを握っていることは明らかだった。

 アキレス腱痛から復帰してからの変化のひとつに、投手によって打撃を変えるようになったことが挙げられる。江川に対しても同様だった。一般的に150キロ近い球速を出す投手のボールはリリースから捕手のミットまで0.41秒ほどと言われるが、江川に対してはリリースから0.25秒ほどのところにポイントを置いた。それまでは速球に振り遅れ、独特の浮き上がるボールの下を叩いてしまうことが多かったものが、思い切って前にミートポイントをイメージすることで、それを引っ張る余裕が生まれてきた。

 さらに終盤には、グリップが太くヘッドの軽いタイカップ式のバットを調達。9月14日の巨人戦(後楽園)では、そのバットで江川から同点打を放って逆転勝利につなげている。

 リリーフエースで左サイドハンドの角三男も同様だった。左打者の背中から外角へ逃げていくスライダーやカーブを左方向に流そうとしていたが、どんどん球が逃げていって届かないため、やはりポイントを前に置いて右方向へ引っ張る意識で攻略。同じ巨人でも対照的なのはシュートをウイニングショットとする西本聖で、当初はベースの前でとらえてしまいポイントを決められなかったが、カーブのタイミングで待つことで、うまく間を作って、引き付けて打つことができるようになった。

 こうして、勝ち星では巨人が2勝も上回っていたが、勝率で上回った中日が最終戦でリーグ優勝を決める。自身2度目の優勝だった。

37歳にして長距離砲に


 打撃の進化は止まらなかった。翌83年から2年連続で全試合に出場。33二塁打で7年ぶりにリーグ最多となる。続く84年は、まさに主砲と言える結果を残す。もともと中距離ヒッターで、Vイヤーの82年は打率も3割に届かないながら85打点という相手投手からすれば嫌なタイプの四番打者だったが、37歳を迎える84年は打率.329、いずれも自己最多となる166安打、34本塁打、99打点。166安打は若きチームメートで、同じ左のヒットメーカーでもある田尾安志と並んでリーグ最多でもあった。

 アキレス腱痛を経て確立した新たな打撃スタイルの頂点ともいえるシーズンだったが、そんな不屈の好打者にも老いは忍び寄ってきていた。85年には通算2000安打にも到達したが、前年までの勢いは失われていた。86年オフに現役を引退。全盛期ほどではないにせよ、まだまだ余力が見える成績だったが、星野仙一の監督就任により引退を決断したともいう。

 同い年には、やはりアキレス腱で苦しんだ南海の門田博光をはじめ、左の好打者、左の好投手が多い。ライバル意識とともに、技術的に共感していたというのがヤクルト若松勉だ。同じ年で、同じ左の巧打者。次回は、そんな“ミスター・スワローズ”を追う。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング