1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 木田=パームのイメージ
パ・リーグの1980年は、この男のためにあったと言っても、そう大袈裟でもないだろう。ドラフト1位で日本ハムへ入団した新人の木田勇だ。ペナントレースは前期が
ロッテ、後期は近鉄が優勝して、プレーオフを制した近鉄が連覇を達成、前年の日本シリーズで
広島に“江夏(豊)の21球”で惜敗したリベンジを果たさんとする物語も、かすんでしまった感もある。
ちょうど10年後の90年、パ・リーグでは新人の
野茂英雄(近鉄)が旋風を巻き起こし、その後のメジャーでの活躍もあり“トルネード旋風”として伝説となっているが、豪快なフォームから剛速球を繰り出して三振の山を築いた野茂ほどの華やかさはないものの、ルーキーイヤーに限って比較すれば、野茂に勝るとも劣らない、いや、それ以上の勢いだったかもしれない。
22勝、投球回253イニング、19完投、勝率.733、225奪三振、防御率2.28は、すべてリーグトップで、最多セーブを除く投手タイトルを総ナメ、プロ野球で初めて新人王とMVPをダブル受賞した。シーズン3度の毎回奪三振もプロ野球で初めて。ベストナイン、ゴールデン・グラブもダブル受賞。まさに圧巻だった。
78年秋のドラフトで大洋、広島、阪急が1位で指名し、広島が交渉権を獲得するも、親が病気だったこともあり拒否。地元の横浜にあった大洋でプレーしたい思いが強かった。翌79年秋のドラフトでも大洋は巨人、日本ハムとともに1位で指名したが、またしてもクジを外し、交渉権を獲得したのは日本ハム。当時の本拠地は後楽園球場で、それほど地元からも遠くなかったが、「万年Bクラスだし正直、一番入りたくなかった球団でした」と笑う。だが、1年の“浪人”を経ても、1位で指名してくれたことはうれしかった。
収穫もあった。ウイニングショットはパームボールだが、これは日本ハムに入団してから、
植村義信コーチに教わったものだ。
「僕は超速球派だと思っていた。それが木田=パームというイメージが定着したのに少しヘコみましたよ」と振り返るが、パームで決められる前に打者が打とうと焦るようになり、「(打者が)的を絞りにくい、カウントを稼げる、すごく効果のあるボールでした」という。
だが、このウイニングショットは諸刃の剣でもあった。1年目の登板過多もあったが、他のパームボーラーと同様に、肩が悲鳴を上げるようになる。
その後は急失速……
「1年目は20勝まで考えていなかった。結果的に22勝で、翌年は25勝という目標を立てればよかったんですが、最低でも15勝、できればまた20勝したい程度の気持ちで、自分でハードルを下げてしまったんです」
翌81年は10勝。チームはリーグ優勝を果たしたが、勝ち星を大きく減らした。そして、これが最後の2ケタ勝利となる。86年にプロ入り前に希望していた大洋へ2対2のトレードで移籍、1年目こそ8勝を挙げたものの、その後は3年で2勝にとどまり、90年に
中日で1年だけプレーして引退した。
勝利の女神に手を引かれ、導かれて、最後の最後で凄まじい勢いで突き放される……。そんな運命なのかもしれない。社会人でも都市対抗の決勝で敗れた。圧巻のルーキーイヤーも近鉄との最終戦、勝つか引き分けで日本ハムの優勝という状況だったが、中1日で両チーム無得点の3回途中から救援登板も5失点、1点差の惜敗で優勝を逃した。
2度もクジを外した念願の大洋へ移籍したときには全盛期に遠く及ばず。その大洋時代には巨人の
槙原寛己と投げ合い、ともに9回まで無失点で延長に突入、11回裏に大洋がサヨナラ勝ちを飾ったが、10回裏に代打を出されて勝ち星がつかなかったこともあった。
「1年目が輝いたのは日本ハムだったから」と語る。ただ、もし1年目から大洋だったら、もしパームを持たなかったらなど、さまざまな空想をしてみたくなる左腕だ。
写真=BBM