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プロ野球1980年代の名選手

佐々木恭介 近鉄リーグ連覇の使者となったスラッガー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

西本幸雄監督との出会いで打撃開眼



 1980年にパ・リーグで連覇を達成した近鉄は、とにかく優勝から遠かったチームだった。2リーグ分立の50年に参加。一気に球団が増えたことで、プロ野球界では「引き抜き自粛の申し合わせ」があったが、それを遵守した唯一の球団が近鉄だった。

 だが、その紳士的かつスポーツマンシップに忠実なスタンスが皮肉にも、長く低迷を続ける悪循環の始まりだったことは疑いようがない。戦後の復興とともにプロ野球も成熟していったが、近鉄はAクラスが50年代、60年代ともに1度ずつ。はるかに最下位に沈んだ回数のほうが多い。“お荷物”とも揶揄された近鉄が、初優勝の翌年に連覇を成し遂げたのだ。その歴史は2004年に幕を下ろすことになるが、これが唯一の連覇だった。

 確かに、ドラマは初優勝の79年のほうが多い。敗れはしたが、広島との日本シリーズ最終戦“江夏(豊)の21球”は球史に残る頂上決戦の名勝負だ。80年は日本シリーズも同じ顔合わせで、劇的な展開も少なかったことから、振り返られることは少ない。88年には“10.19”があり、翌89年のリベンジなど、ドラマの多い球団史にあって、80年は単なる通過点という認識にとどまるのも、やむをえないのかもしれない。

 しかし、近鉄の歴史を俯瞰して、黄金時代と呼べるほど長い期間ではないものの唯一の連覇であり、まるで連覇のために入団し、連覇を導き、そして連覇を終えて去っていった名選手がいたのも確かだ。その筆頭格が佐々木恭介だろう。

 ドラフト1位で72年に入団したが、「田舎の高校だったんでコーチもいないし、単純な考えでバットを構えたところから最短距離でボールにぶつけようと思っていた」という新人が初めて打撃指導を受け、人によって違うことを言われたことで真価を発揮できずにいた。そして3年目、西本幸雄監督との出会いが、打撃の天才を覚醒に導く。

「打撃に関しては、影響を受けたというより、100パーセント西本さんです」

 社会人で日本代表の四番打者を務めたこともあって飛距離には自信があった強打者が、アベレージヒッターとして成長していく。75年には初の規定打席到達で打率.305をマークして、初の歓喜でもある後期優勝に貢献。プレーオフでは阪急に屈したが、78年には打率.354で首位打者となり、阪急との激しい優勝争いの原動力になった。

 翌79年は打率.320にとどまったが、前年の9本塁打から倍増の18本塁打。近鉄は前期を制し、プレーオフでは阪急を破って初めてリーグの頂点に立ったが、日本シリーズでは“江夏の21球”に代打で三振に倒れた。

 迎えた80年も打率.318に自己最多の19本塁打。近鉄も後期優勝からプレーオフでロッテに完勝して連覇も、日本シリーズでは2年連続で3勝4敗、雪辱はならなかった。

悪夢の肝炎で引退


 81年は左ヒジの故障で精彩を欠く。翌82年は悪夢だった。左ヒジは完治したが、春のキャンプを前に、たまたま受けた血液検査で肝臓の数値に異常が出る。キャンプ中に電話で病院に呼び戻されて再検査を受けると、肝炎が発覚。そのまま入院となった。

 だが、体は元気で、病院の屋上でバットを振ったりしていたが、医者には「死にたいんか。治すのが先や」と怒られたという。開幕後に退院したが、体重が増え、キレを戻すために自らを追い込むことを余儀なくされた。そこへ、再発の恐怖も加わる。監督を退任していた西本に相談すると、「遅かれ早かれ指導者の勉強をしなきゃならんのだから、若いうちにしたらええ。早くやめれば、それだけいい指導者になれるぞ」と言われ、現役を引退する。

 打撃は未完のままだったかもしれない。雪辱も果たせなかった。だが、短い間ながらも天才的な打撃は輝きを放ち、その光に導かれるかのように近鉄は連覇を達成した。あと一歩まで近づきながらも、最後まで日本一の座を経験しないまま終わった西本監督、そして近鉄。彼らの運命は、どことなく似ている。

写真=BBM
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