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プロ野球1980年代の名選手

ジム・ライトル カープで2度、優勝を経験した巧打強肩の助っ人/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

強肩で魅せたライトのライトル



 2016年に25年ぶりのリーグ優勝を果たして以来、破竹の勢いの広島。ここ数年が平成の黄金時代なら、1980年の前後は昭和の黄金時代といえる。75年が初優勝で、2度目の79年が初の日本一。80年には2年連続で日本一にもなった。

 80年代は84年に日本一、86年にもリーグ制覇を果たしていて、現在進行形の黄金時代に沸く広島ファンの中にも、昭和の黄金時代を懐かしむ向きは少なくないだろう。古葉竹識監督が率い、山本浩二衣笠祥雄ら“YK砲”が切磋琢磨。リードオフマンの高橋慶彦が塁間を駆ければ、個性あふれる投手たちがマウンドで躍動した。

 一方、助っ人の存在感は希薄だ。初優勝の75年にはホプキンス、シェーンが貢献したが、ともに76年限りで退団。入れ替わるように来日、入団したのがライトルだ。昭和の黄金時代にあった広島で唯一、2度の優勝を経験した助っ人でもある。

“YK砲”が打線の主役を張り、本塁打を量産していた広島にとって、必要な補強は長打より巧打だったというのもあるだろう。実際、衣笠は当時、まだ打率3割に届いたことがなかった。そんな広島打線にあって、巧打の助っ人は必要不可欠なバイプレーヤーとして存在感を放つ。勝負強さを兼ね備えた中距離打者タイプだったが、狭い日本の球場にアジャストすると、本塁打も連発するようになった。

 最大の武器は外野守備での圧倒的な強肩。右翼からの“レーザービーム”で走者を刺し、その存在は走者に対する抑止力にもなっていく。高校時代は投手で、完全試合を4度も達成した速球派だったという。

 何かと派手な助っ人たちと一線を画し、物静かなキャラクターも当時の広島とマッチした。ホプキンスは医師を目指しながらプレーしていたことで知られていたが、すでに高校の教員免許を持ち、ほとんど酒も飲まず、常に過程を最優先する愛妻家。広島には“単身赴任”で、在日アメリカ人の多い神戸に家族を住まわせていた。

 若手選手へは関西へ遠征した際に“マイ・ホーム”へ招いて食事をふるまい、82年限りで引退するチームメートで、当時の現役最年長だった渡辺秀武へは、敬老の日に木彫りの老人人形を贈ったこともあったという。やや微妙なプレゼントではあるが、チームに溶け込もうとする意志は伝わってくる。

 プレーもフォア・ザ・チーム。来日2年目までは二塁に回ることもあり、古葉監督も「ライトルの場合は、バントもできるし、走ることもできる。なんでも対応してくれた」と貢献度を評価している。

 来日1年目から打率3割を超え、2年目から連覇の80年まで3年連続で全試合に出場。“YK砲”とのクリーンアップで、誰ひとり欠場しないのだから相手チームにとっては厄介だ。79年までは三番が多かったが、80年は“YK砲”に続く五番が増えた。

日本シリーズ連覇に貢献


「アリガトウ!」

 80年の近鉄との日本シリーズでは第1戦で2本塁打、第4戦の初回には決勝打となる2ランを放つ活躍でMVPに選ばれ、開口一番に飛び出したのが日本語だった。外国人選手の日本シリーズMVPは史上3人目。

「広島に来てよかった。僕は幸せ者だ」

 翌81年は山本と打点王のタイトルを争い、33試合で四番にも座った。最終的には100打点で、3点差でタイトルは譲ったが、リーグ最多の157安打を放ち、4年連続で外野のダイヤモンド・グラブも受賞している。

 ただ、契約交渉では常にシビアで、在阪球団へのトレードを志願することも多かった。外国人選手にありがちな、いわゆる出稼ぎ感覚の持ち主には違いなく、日本で稼いで帰国後に果樹園や牧場を経営するのが目標と明言。移籍できないとなったら年俸アップを要求した。しかし、在阪球団にこだわったのは神戸に住む家族と暮らしたかったからでもある。

 82年限りで南海へ移籍、家族で暮らす念願はかなったものの、打撃で精彩を欠いて、1年で退団、現役も引退した。

写真=BBM
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