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プロ野球1980年代の名選手

山内和宏 “山内トリオ”の一角は低迷期ホークスのエース/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

エースナンバー18の苦労人


南海・山内和宏


 1980年秋のドラフト1位で南海に指名され、81年に入団。エースナンバーの背番号18を与えられたのが山内和宏だ。ドラフトの年度こそ違うが同期入団で背番号19の山内孝徳、すでにエースとして活躍していた背番号20の山内新一と、同じ苗字で背番号が並んだ“山内トリオ”を形成し、1年目から一軍登板を果たす……という流れは、いかにもエリート。だが、ドラフト指名までは、エリートコースとは真逆だったともいえる。細身ながら圧倒的なスタミナが武器だったが、メンタルも骨太だった。

 駒大では同級生がトラブルで退部すると、同時に退部し、そして駒大も中退する。週末になると軟式野球チームの助っ人として投げる“アルバイト”生活に突入。2、3カ月は今でいうフリーターだった。高校時代の監督に勧められて、社会人野球のリッカーへ。そこでの成長で南海のスカウトに見出され、ドラフト1位での指名に至る。

 このドラフトの1位での入団は、セ・リーグは巨人の原辰徳、阪神の中田良弘中日中尾孝義広島川口和久ら、パ・リーグは西武の石毛宏典ロッテ愛甲猛、近鉄の石本貴昭ら、そうそうたる顔ぶれ。そんな大豊作ドラフトにあって“いの一番”での指名だった。

“山内トリオ”は全国区の人気選手がいなかった南海の売り出し策だったが、期せずしてライバル心が刺激される。同期入団で年齢も近く、同様に本格派の右腕でもある山内孝と、「一緒にいることは、まずなかった」という。ともに即戦力となったが、1年目の81年は5勝で、山内孝の7勝に及ばず。翌82年は初の2ケタ11勝を挙げたが、山内孝は13勝。2年連続で後塵を拝したが、リーグ最多の4完封は自信につながった。

 ストレートにカーブ、スライダーを織り交ぜる本格派のピッチング。チームメートの野手から打者の心理を学び、「タイミングさえ外せば凡打にできる」が信条で、緩急を使った投球を心がけた。フルカウントまではギリギリのコースを狙っていたので投球数が増え、コントロールが良いわりに四球も多い。

「直球がナチュラルにスライドするので、右打者へのインコースは投げづらかった」という。82年はシュルツ投手コーチに教わったチェンジアップが新たな武器になったが、翌83年に同じく河村久文コーチからフォークを習得、一気に投球の幅が広がった。

 満を持して臨んだ83年シーズンは山内孝の10勝を大きく上回るどころか、自己最多の18勝を挙げて西武の東尾修と最多勝のタイトルを分け合う。低迷を続ける南海にあって、自身初の勝ち越しでもあった。

投げても壊れないタフネス


 血行障害に苦しみながらの最多勝だったが、投球回249イニング2/3も自己最多で、2年連続でリーグ最多でもある。

「血行障害の時期もありましたが、それ以外は肩、ヒジの故障もなく、回復も早いので、けっこう短い間隔で投げられるタイプだったんです。それだけの練習をしていましたから、スタミナはありました」と胸を張る。

 ちなみに、オフに山内新が阪神へ移籍したことで、この83年が“山内トリオ”のラストイヤーとなった。

 その後も3度の2ケタ勝利など、投手陣の中心的存在として低迷期の南海を支え続ける。それはチームがダイエーとなり、福岡へ移転しても変わらなかった。だが、90年シーズン途中に首脳陣と衝突。

藤田学コーチと、ふだん仲が良かったので、つい言いすぎてしまったんです」

 そのまま中日へ移籍。地元の静岡に近い球団で両親は喜んだというが、慣れないリリーフ起用もあって伸び悩んだ。92年限りで現役引退。通算97勝111敗で、「100勝まで、あと3勝。心残りでした」と振り返る。

 起用法に苦しんだ中日時代は通算5勝4敗と勝ち越しており、負け越しは南海、ダイエー時代の結果。逆説的だが、低迷するチームへの貢献度が分かる記録だ。

写真=BBM
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