1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 山内トリオの大黒柱
1981年に南海で“結成”された山内トリオ。単なる売り出し策だけで終わらず、実際に先発三本柱として機能していくが、生え抜きの若い2本の柱とは別格の“大黒柱”といえるのが山内新一だ。背番号18の
山内和宏、背番号19の
山内孝徳に続く背番号20。だが、81年に入団した山内和、山内孝よりも入団は8年、プロ入りは13年もさかのぼり、“結成”時にはベテランとなっていた。
そして、間違いなく当時の南海におけるエースだった。全盛期の70年代、黄金時代の阪急には
山田久志や
米田哲也、
ロッテには
成田文男、
金田留広に
村田兆治、近鉄には
鈴木啓示、太平洋(のちの西武)には
東尾修がいて、当時からタイトルには無縁だったが、73年、77年には20勝を挙げ、5年連続を含む2ケタ勝利8度。阪神時代にまたがっての311試合連続先発登板はプロ野球記録だ。
山内トリオのうち唯一、南海の生え抜きではない。ドラフト2位で68年に入団したのは巨人だった。当時の巨人はV9の真っ只中。そんなチームにあって、2年目から頭角を現していく。3年目の70年はリリーフ中心で41試合に登板して8勝4敗でV6に貢献。セーブ制度があれば10セーブ近くはマークしていたはずだ。
防御率1.78の安定感だったが、わずかに規定投球回にも届かず。もしも、ここでタイトルホルダーになっていれば運命も変わっていたかもしれないが、選手層の厚さでも他チームを圧倒する巨人では、「失敗すると、すぐに二軍へ落される」危機感で、徐々にピッチングが委縮。制球に苦しみ、試合中に突如として乱調に陥るようなことが続いた。翌71年は5勝。そして72年、ヒジ痛もあってゼロ勝に終わると、
富田勝とのトレードで南海へ放出された。
当時の南海は、監督も、四番打者も、司令塔も、
野村克也だった。確かな実力を持ちながらも巨人で辛酸をなめ、「ダメなら1年でクビを覚悟」していた右腕にとって、この出会いは天の配剤だったのかもしれない。
「お前は、10勝はできる。球の威力もワシが思っていた通りや」
「チャンスは公平に与えるから、余裕をもって投げ込め」
監督であり、バッテリーを組む正捕手でもある野村の言葉が、じわじわと響いてきた。完全復活、いや、本領発揮というべきか。野村のリードで両サイドを厳しく攻め、はるかに巨人時代をしのぐ投球で前期優勝、プレーオフ制覇に貢献。日本シリーズで南海は敗れたが、古巣の巨人に対して好投を見せた。だが、野村が去ると南海は一転、深刻な低迷に陥る。78年と80年は大きく負け越して、ともにリーグ最多の16敗を喫した。
不遇のラストイヤー
「徐々に負けの悔しさが薄れてきた。ベテランになるにつれて燃えるものがなくなってきたのはありました」
迎えた81年は復活の14勝。山内トリオは、ある種の起爆剤だったのかもしれない。続く82年は10勝、3人で34勝を挙げた。最下位に沈んだ南海がシーズン53勝だから、半数以上を3人で稼いだことになる。
だが、83年は2勝に終わると、若返りの方針もあって阪神へ放出される。新天地1年目となった84年は先発に定着して7勝9敗でBクラスのチームを支えたが、翌85年、
吉田義男監督の就任で運命が暗転。中継ぎに回され、連続試合先発登板の記録も途切れた。巨人戦のための調整として登録を外されると、二度と一軍に呼ばれることはなかった。皮肉にも、その85年は阪神が2リーグ制となって初の日本一になったシーズンだが、「僕は別に。他人事でしたね」。
そのまま引退。通算143勝だった。
「150勝には行きたかったな。ケガもなかったし、使ってもらえたら10勝くらいする自信はありましたよ」
あまりにも不遇といえるラストイヤーだった。その後もコーチや解説者には就かず、プロ野球界との縁を絶っている。
写真=BBM