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プロ野球1980年代の名選手

松原誠 DeNAへ受け継がれている強打の記憶/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

通算2000安打は本塁打で


大洋・松原誠


 1980年4月23日の阪神戦(横浜)。1回表に真弓明信の先頭打者本塁打で先制された大洋は、その裏、2四球で二死一、三塁という逆転のチャンスを迎える。打席に立ったのは、長く大洋で四番打者を担ってきた松原誠だ。プロ19年目。この日は五番打者として出場していた。

 先発の長谷川勉が初球を投じると、打球は左翼席へ。シーズン1号となる逆転3ラン本塁打は、通算2000本目の安打でもあった。球団史上初の通算2000安打。73年には通算1000安打も本塁打で達成していて、「ホームランでケジメをつけたい」と狙っていたという。76年には2試合にまたがってプロ野球記録に並ぶ4打席連続本塁打も放っているが、こだわり続けたのは本塁打ではなく、打点だ。

「ここぞというときに打つのが四番の仕事」

 毎年のように得点圏打率も3割を超えた。

 プロ入り時は3球団から誘われたが、幼いころに亡くなった父が神奈川県川崎市の出身だったことから、川崎球場に本拠地を置く大洋へ入団を決めた。入団時は捕手だったが、三原脩監督から「打撃を生かせ」と言われ、一塁手に転向。4年目の65年にレギュラーとなった。三塁も守るようになったが、71年からは一塁がほとんどとなる。

 その一塁守備は絶品だった。一塁への送球がそれても、柔らかい体を生かして両足をペタリと地面に着けて捕球。“マタ割りキャッチ”と呼ばれ、大洋の名物になった。

「足を着けないほうが伸びやすいんだけど、足が一塁ベースから離れる心配がある。“マタ割り”だと、それがないので。でも、名物になっちゃったからやめられなくて、あれで腰を痛めちゃった」

 72年からは守備を顕彰するダイヤモンド・グラブ(現在のゴールデン・グラブ)が始まったが、同じセ・リーグの一塁手では巨人に王貞治がいて、守備では決して負けてはいなかったが、記者投票による表彰では一塁は王の“聖域”。最後まで受賞はならなかった。

 77年にはリーグ3位の110打点をマークして大台を突破。打点王は124打点の王だったが、王が全体の約73パーセントを本塁打で稼いだのに対して、本塁打による打点は約56パーセントに過ぎない。チャンスではなくても最低1点にはつながるのが本塁打だが、それ以外で挙げた打点は王の33打点を大きく上回る48打点。ここからも、その勝負強さが分かる。また、74年に157安打、78年にも164安打で、2度のリーグ最多安打をマーク。15年連続2ケタ本塁打という長打力を秘めつつも、右方向への流し打ちなどの巧打も魅力だった。

通算本塁打&打点は球団記録


 大洋に骨を埋め、80年限りで引退しようと決めていた。だが、そのオフ、巨人に激震が走る。長嶋茂雄監督の退任、そして王の引退。王の抜けた一塁の穴を埋めるべく、藤田元司新監督に誘われて移籍する。

 シーズンは36試合の出場に終わったが、初めて優勝を経験する。勝負強さを発揮したのは日本ハムとの日本シリーズ。1点を追う9回表に代打で登場すると、クローザーの江夏豊から同点本塁打を放っている。そのまま巨人は日本一に。もちろん、大洋では経験したことのない日本一の歓喜だったが、「正直それほど、うれしくなかった。僕はやっぱり大洋ホエールズで優勝したかったんですよ」。

 そして、その81年限りでユニフォームを脱いだ。

 大洋でのラストイヤーとなった80年シーズン終了時点で、通算2081安打、330本塁打、1172打点。横浜ベイスターズとチーム名が変わり、21世紀に入ると通算安打は石井琢朗が更新したが、通算本塁打、通算打点は現在も球団記録として残る。なお、その背番号25は2018年現在、筒香嘉智が継承。チームはDeNAとなっているが、その強打の記憶も確実に受け継がれている。

写真=BBM
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