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ドラフト会議物語

【ドラフト会議物語04】渋いがなかなかの豊作年。大洋2位の平松が出世頭【1966年2次】

 

今年は10月25日に行われるドラフト会議。毎年、金の卵たちが、どの球団へ進むか大きな注目を集める“一大イベント”で、さまざまなドラマも生まれる。今年で54年目を迎えるドラフト会議の歴史を週刊ベースボールONLINEでは振り返っていく。

完全試合投手を2人輩出


平松は翌年の都市対抗後入団。1年目のみ背番号は3だった


1966年11月17日
第2回2次ドラフト会議(日生会館)

[1位選手]
近鉄   門野利治 (平安高)
サンケイ 加藤俊夫 (日本軽金属)
阪急   平林二郎 (中京商高)
大洋   山下律夫 (近大)
東京   八木沢荘六(早大)
広島   西本明和 (松山商高)
東映   高橋善正 (中大)
阪神   西村公一 (甲府工高)
西鉄   荒武康博 (報徳学園高)
中日   伊熊博一 (中京商高)
南海   中村之保 (法大)
巨人   槌田誠  (立大)

 1次に続いて行われた2次ドラフトは、5位までで終了と指名人数は少なかったが、この会議から多くの実力者たちがプロの門を叩いた。

 1位では八木沢が大洋、東映との競合で東京、西本が阪急、西鉄との競合で広島が交渉権を手にした。プロ13年間で71勝を挙げた八木沢に対し、西本は投手としては6勝にとどまり、打者に転向するも肝臓病を発症して一時引退。3年後に復帰するも、通算45安打で現役を退いた。

 クジ運に泣いたのは東映だ。希望順位1番の八木沢を逃し、2番の西村がすでに阪神、3番の荒武は西鉄に抽選で敗れ、4番の門野もすでに近鉄。結果的には希望順位5番目の高橋に落ち着いた。しかし、高橋は1年目から15勝を挙げ、新人王に輝いたのだから不思議なものだ。また八木沢、高橋とも、のちに完全試合達成投手になっている。

 2位で大洋に指名された日本石油の平松政次は、のち名球会入りし、このドラフト会議組の出世頭。岡山東商高時代、3年時のセンバツで優勝投手となり、65年ドラフトで中日に4位指名も拒否し、社会人入りしていた。巨人志望が強く、このときも拒否の可能性が高かったが、結局、翌年夏の都市対抗で優勝を飾った後、1年遅れの入団。シュートを武器に“巨人キラー”として名を馳せた。

 ほかにも、のち内野の職人的選手としてレギュラーとなる東映2位の大下剛史(駒大)、阪急5位の阪本敏三(河合楽器)ら玄人好みのする渋い逸材がそろった豊作ドラフトだった。

 さらに、中日3位は井手峻。大洋・新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロ野球選手となった。

 また、ドラフト会議年2回開催は、この41年わずか1年限りで中止、翌42年から再び年1回開催となった。

<次回に続く>

写真=BBM
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