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プロ野球1980年代の名選手

野村克也 “生涯一捕手”のラストイヤー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

求められたのは“リリーフ捕手”


西武・野村克也


 ライオンズが埼玉県の所沢へ移転し、西武となって2年目となる1980年2月、キャンプ地となった高知県の春野に、プロ27年目、45歳を迎える野村克也の姿があった。

 南海時代の65年に戦後初の三冠王となり、本塁打王9度、打点王7度。70年からは監督を兼任していたが、77年シーズン終盤に南海を追われ、“生涯一捕手”を掲げてロッテへ移籍、「ボロボロになるまでやりたい」と西武元年の79年に合流した、まさにレジェンドだ。ただ、全体の練習スケジュールから1人だけ外れ、バットを握ることもなければ、ブルペンに座ることもなかった。

 プロ6年目の外野手で、キャンプで同室だった春日昭之介が、そのノートを目撃している。そこには実験レポートのように箇条書きで何らかの数字がズラッと列挙されていた。その数字は、ほかの選手より3分の1ほど少ないキャッチボール数、ランニング量、受けたノックの数、さらには誰もいないサーキット場で黙々と励んだウエートトレーニングの回数だったという。

「現役として、どこまでやれるか。晩年のキャンプでの調整法は、どうしたらいいのか。あとから続く選手たちへの参考になればいいと思ってね」

 南海時代は山内新一金城基泰松原明夫(のち福士明夫、敬章)といった投手たちを飛躍へと導き、90年代にはヤクルトの監督としても多くの名選手を復活させて“野村再生工場”と言われるが、このときは自らの体こそ“実験台”。同時に、新たなる挑戦でもあった。

 迎えた80年シーズン、根本陸夫監督に求められたのは“リリーフ捕手”。リリーフ投手と同様に、試合の終盤、ここぞという場面でマスクをかぶる役割だった。ただ、“生涯一捕手”にとって、これも新しい挑戦だった。

「初回から相手の出方、相手打者の好不調を的確に判断して、ゲームを作っていく」

 それまでの方法論は通用しない。生え抜きの東尾修らベテランもいたものの、投手陣の主力は松沼博久、雅之の兄弟や森繁和など若手ばかり。レジェンドの“リリーフ捕手”は、独特のインパクトを放つ。

 打撃は確実に衰えていたが、リードは健在だった。79年には、アンダースローからストライクゾーンの高めへ速球を投げ込んで勝負していた松沼博に「ボールのイメージで投げろ。振ってくれるから」とアドバイス。実際に打者のバットは空を切り、それによって低目へのシンカーも効果を発揮するようになったという。

前人未到の3000試合


「3000メートルの山の頂に立ったという気分だろうか。ここにきて、3100メートルの山が見える」

 8月1日、奇しくも愛憎ある古巣の南海戦(西武)。ついに前人未到の通算3000試合出場に到達する。試合後、息子の克則(のちヤクルトほか)を抱き上げて嬉し涙を流した。

 だが、9月28日の阪急戦ダブルヘッダー第1試合(西武)、1点差に迫った一死満塁の場面で、「犠飛ならいける」と自信を持って打席に向かったところを呼び止められ、代打を送られる。代打策は失敗し、併殺という結果に終わったが、ベンチに下がって無意識に代打策の失敗を願っていたことに、さらなるショックを受ける。初めて、もう選手はやめよう、と思った。

 11月16日のファン感謝デーで、引退をファンに告げて、涙を流した。通算3000試合出場を達成した日の涙とは趣が異なり、様々な意味を持った涙だっただろう。そして若い選手たちに、こう言い残して去っていった。

「テスト生のワシが27年間もプレーし続けることを誰が予想したろう。常に高い水準を目指して一歩一歩、前進してほしい」

 通算3017試合出場。2015年に同じ捕手で兼任監督でもあった中日谷繁元信が更新するまで、長きにわたるプロ野球記録だった。

 通算657本塁打、1988打点も王貞治(巨人)に続く歴代2位。通算1万1970打席、通算1万472打数、そして通算378併殺打は現在もプロ野球記録として残る。

 一見すると不名誉な通算併殺打でさえ、長く第一線でプレーしてきた“月見草”の勲章だ。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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