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ドラフト会議物語

【ドラフト会議物語14】目玉はサッシーこと酒井。東海大相模高・原辰徳は指名されず【1976年】

 

今年は10月25日に行われるドラフト会議。毎年、金の卵たちが、どの球団へ進むか大きな注目を集める“一大イベント”で、さまざまなドラマも生まれる。今年で54年目を迎えるドラフト会議の歴史を週刊ベースボールONLINEでは振り返っていく。

成功率の高いドラフト


翌77年の春季キャンプでの酒井。子どもたちの帽子に巨人阪神が見られるのはご愛嬌


1976年11月19日
第12回ドラフト会議(ホテル・グランドパレス)

[1位選手(×は入団せず)]
ヤクルト 酒井圭一(長崎・海星高)
中日   都裕次郎(堅田高)
大洋   斉藤明雄(大商大)
巨人   藤城和明(新日鉄広畑)
阪急   佐藤義則(日大)
近鉄   久保康生(柳川商高)
クラウン 立花義家(柳川商高)
ロッテ  森繁和 (駒大)×
日本ハム 黒田真二(崇徳高)×
南海   武藤一邦(秋田商高)×
広島   山崎隆造(崇徳高)
阪神   益山性旭(帝京大)
 
 前年、会場が東京グランドホテルに変わったばかりだったが、この年から東京・九段下のホテル・グランドパレスになった。
 
 注目されたのは高校球界の大物2人だ。東海大相模高のスラッガー・原辰徳と快速球右腕、サッシーの異名も取った酒井圭一だ(ニックネームはネッシーが由来だが、当時未知の怪物に“シー”をつける流行があった)。

 酒井は指名順トップだったヤクルトが1位指名したが、原は早くから「東海大進学」を表明していたこともあり、どの球団も手を出すことはなかった。のち原は「巨人の1位指名がなかったから」と進学の理由を明かしている。なお、酒井はヤクルトの松園尚巳オーナーが同じ長崎出身だったこともあり、超ビップ待遇の新人だったが、3年目のオープン戦で打球が顔面に直撃し、左頬を陥没骨折する不運もあって通算6勝で終わった。

 1位ではほかに中日が82年優勝の左腕エース・都裕次郎、大洋がヒゲのストッパー・斉藤明雄、巨人がのち歌手にもなった藤城和明、阪急が不惑のノーヒッター・佐藤義則、近鉄が通算550試合登板の鉄腕・久保康生、クラウンがのち19歳の三番打者とも呼ばれた立花義家、広島が好打のスイッチヒッター・山崎隆造、阪神が2度目のドラフトで入団した益山性旭と、拒否した3人を除けば全員がそれなりの結果を出している。

 2位にはヤクルトの変則左腕・梶間健一(日本鋼管)、南海は早逝した三塁手・久保寺雄二、3位には中日のホームラン王・宇野勝(銚子商高)、巨人の快速球左腕・角三男(三菱重工三原)、ロッテのアンダースロー・仁科時成(大倉工業)、4位にも日本ハムの名捕手・大宮龍男(駒大)、南海の78年新人王右腕・村上之宏(日本通運)、さらに5位には巨人の青い稲妻・松本匡史(早大)、近鉄の天才強打者・山本和範(戸畑商高)。スーパースターと言われる選手はいなかったが、非常に成功率の高いドラフトとして語り継がれている。

<次回に続く>

写真=BBM
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