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プロ野球1980年代の名選手

山根和夫 カープを日本一に導いた日本シリーズのエース/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

制球難を克服して



 昭和の広島黄金時代。特に日本シリーズでは抜群の好投を見せて3度の日本一に貢献した山根和夫は、幸せの絶頂で1980年代を迎えていた。75年秋にドラフト2位で指名されて77年に入団。快速球は申し分なかったが制球難でファーム暮らしが多く、チームメートからは苗字をもじって“じゃまね”などと揶揄されたこともあった。

 だが、大石清コーチから「制球に気をつけて、フォークは地面に叩きつけるように」と指導されて、ノーワインドアップにフォーム改造。79年も開幕は二軍スタートながら、7月12日の巨人戦(広島市民)で2回途中からのロングリリーフでプロ初勝利を挙げると、先発に定着してリーグ優勝に貢献する。

 近鉄との日本シリーズでは勝負強さに懸けた古葉竹識監督から3試合も先発のマウンドを託され、第2戦(大阪)こそ6回まで無安打に抑える好投も敗戦投手となって悔し涙を流したが、第5戦(広島市民)で雪辱の完封。“江夏(江夏豊)の21球”のドラマがあった第7戦(大阪)でも勝利投手となる。そしてオフ、12月22日に結婚式を挙げて、こう誓った。

「これからはオレの右腕1本で、アイツ(妻)を養っていきます」

 まさに有言実行。迎えた80年は開幕から獅子奮迅の活躍で、快速球と高速フォークを駆使して14勝、2年連続で同じ顔合わせとなった近鉄との日本シリーズでは第1戦(広島市民)の先発マウンドに立ち、第4戦(大阪)で完封、2年連続で第7戦(広島市民)の勝利投手にもなって、連続日本一の原動力となる。翌81年にも12勝。広島は3連覇を逃したものの、制球難は完全に克服し、2年連続で無四球完投はリーグ最多となった。

 広島が優勝から遠ざかるのと同調するかのように82年は失速して7勝にとどまったが、逆に83年は日本シリーズが近づいてくる予兆のように復調の10勝。投球にもマイナーチェンジが施され、1球でのアウトを目標にシュートを磨くようになっていた。

 すべてが完熟したのが84年だった。このころ広島は、「シーズンのエースは北別府(北別府学)だが、日本シリーズのエースは山根」と言われていた。どういうわけか日本シリーズで勝てなかった北別府とは対照的に、その穴を埋めるかのように日本シリーズでは強かったからだ。この84年は、いい意味で、そんな評価を裏切っていく。

完熟の84年


 ツーシーム系の沈むシュートと小さく曲がるシュートの2種類を使い分けて打たせて取る投球を自分のものにすると、シーズンでも最多勝のタイトル争いに加わって、広島を4年ぶりのリーグ優勝へと引っ張っていく。タイトルこそ大洋の遠藤一彦に譲ったものの、チーム最多勝となる16勝を挙げて、初のベストナインに選ばれた。

 阪急との日本シリーズでも“日本シリーズのエース”の面目躍如とばかりに、またしても第1戦(広島市民)と4戦(西宮)に先発、ともに勝敗はつかなかったが、パ・リーグ三冠王のブーマーを徹底した内角攻めで封じ、やはり第7戦(広島市民)にも先発して完投勝利。3度の日本一に導いた右腕が、初めて胴上げ投手になった。

 まさに完熟のシーズンだった。翌85年からは肩痛に苦しめられて急失速していく。その翌86年にも広島はリーグ優勝を飾ったが、1試合の登板に終わり、2年連続で勝ち星なし。オフに西武へ放出された。引退も考えたが、気持ちを切り替えて手術ではなくウエート・トレーニングなどでリハビリに励む。

 移籍1年目の87年こそ6試合の登板にとどまったが、翌88年からは救援のマウンドで復活、負けなしの5勝2セーブと結果を残して、中日との日本シリーズにも登板。続く89年も6勝4セーブをマークしたが、登板なしに終わった90年限りで現役を引退した。

 日本シリーズ通算は11試合の登板で5勝1敗、防御率2.09。3完投、2完封も光る。全盛期は長くなかったが、昭和の日本シリーズを語る上では欠かせない右腕だ。

写真=BBM
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