1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 日本シリーズで3度、初戦先発
「お兄ちゃんの投球フォームじゃ肩が痛くなるよ。でも理にかなったフォームに変えたら大丈夫だから」
1982年に西武の指揮官に就任した
広岡達朗監督が、こう声を掛けた。実際、その前年に肩を痛め、キャッチボール程度しかできなくなっていた。プロ4年目を迎えた松沼博久だ。東京ガス時代には78年の都市対抗で大会記録の17奪三振。
江川卓の獲得をめぐってドラフトをボイコットした巨人にも声を掛けられたが、「そういうことをする巨人より、強いか弱いか分からないけど新興の西武に入ったほうが、おもしろいんじゃないかな」とドラフト外で弟の雅之と仲良く79年に入団。“兄やん”と呼ばれる。
開幕から12連敗と最悪のスタートを切った西武で、記念すべき球団初勝利。もちろん、これがプロ初勝利だ。最下位に終わったチームにあって、アンダースローからの浮き上がる直球を最大の武器に大きく勝ち越し、最終的には16勝で新人王に。だが、翌80年からは9勝、5勝と徐々に失速していく。そんな姿を就任前の広岡監督が見ていたのだ。
細かい広岡の指摘を忠実に守ってフォーム改良。サイドスローほどではないが、腕も30センチほど上げた。すると、「魔法にかかったみたいに」痛みが消え、低めが打者の手元で伸びる感じ」に直球のキレが良くなる。それによりカーブやシンカーも生きるようになっていった。
その82年は最終的には10勝にとどまったものの、リーグ4位の防御率2.83、リーグ最多の152奪三振で、西武となっての初優勝への貢献度も大だ。2試合にまたがって9イニングを完璧に抑える試合もあった。以降4年連続2ケタ勝利。広岡監督からの信頼も絶大で、「広岡理論では第1戦は情報収集ですから。あとで『お兄ちゃんで負けていたらショックが少ない』と言っていたらしい」と振り返るが、広岡監督時代の西武は3度の日本シリーズ出場で、3度とも第1戦の先発マウンドを託されている。
83年の巨人との日本シリーズでは、「あまり日本シリーズは良くないんですが、直前に泊まり込みで巨人のビデオを何度も見てチェックし、それが初戦はハマった」。
そして、江川と投げ合って勝利投手に。リードオフマンの
松本匡史が出塁することを警戒して臨んだが、初回から塁に出られて、かえって楽になったという。3度のサヨナラで伝説となったシリーズだが、一進一退の大激戦にあって、貴重な先制の勝ち星だった。
現役終盤は直球を減らしてシンカーを軸に
85年が広岡監督との最後の日本シリーズとなる。第4戦にも先発して、ともに好投したが、猛虎フィーバーの勢いに呑まれるかのように、西武は日本一を果たせなかった。
「下馬評は西武が有利で、『敵は六甲おろしだけ』と言って、西武球場でテープを流したりして(準備して)いたんですが、(実際は)甲子園が揺れている感じがありました」
規律に厳しい広岡監督が退団すると、若手時代と同様に口ヒゲを生やしはじめた。悪いピッチングをすると剃って、また生やし、ということの繰り返し。だが、若手が頭角を現し始めたこともあり、日本シリーズでは86年と88年に勝利投手となったものの、シーズンでは86年から3年連続で勝ち星が伸びず。それでも、若手時代は投球の90パーセントだった直球の割合を10パーセント程度に減らし、シンカーを軸に低めを狙って打たせて取るスタイルで、89年に4年ぶり2ケタ勝利となる11勝。4勝に終わった翌90年限りで現役を引退した。
「戦う集団にはなっていたけど、勝てる集団まではいかなかった。広岡さんは継投やさまざまな策で、負ける数を減らしたんです」
90年代にかけて続いた西武の黄金時代。その大半を経験しているが、やはり広岡監督の時代、80年代前半の活躍が記憶に残る。「強いか弱いか分からなかった」西武は、実際は弱かったが、その右腕の存在もあって、徐々に最強のチームになっていった。
写真=BBM